2006年8月 7日 (月)

「素人が判断するのは馬鹿か」への返答

五月兎の赤目雑感中西批判の整理に対するコメントがなされていたが、どう返せばいいのか考えているうちになんだかドツボにはまってしまったので、まとまっていないがとりあえず何か書いておこう。

「素人が判断するのは馬鹿か」とのタイトルでもわかるように、疑問を呈する行為自体が馬鹿だと言ってしまうのはどうか、というのが主題のようだ。そして次のエントリ「コレステロールは高いほうが病気にならない というのは真理かトンデモか」ではその例題(のようなもの)を提示している。

うーん、確かに「素人が判断するのは自分の能力を過信した馬鹿の所業だよ」とは言った。しかし、それはたとえば「説得力があると思った」という判断までも否定したかったわけではない。もしそうなら、「ピアレビューをどの程度信用すべきか」で

もし私が中西氏だったらこう判断するだろう。

「確かに槌田説には説得力があるように思える。しかし専門家のピアレビューによると学会誌で公表するに値しない説のようだ。私には納得しがたいが、私は温暖化のメカニズムについて勉強したことがないしろうとである。ピアレビューが間違っている可能性はそれなりに留保しつつ、とりあえずは専門家の言うことを信用しよう」

と言ったことまで否定しなければならなくなってしまう。

じゃあいったい何を否定しているのか?と聞かれると答えるのがなかなか難しい。

現時点で答えるとするなら、「自分の思考について適切なメタ思考ができていないこと」とでもなるのだろうか。

「槌田説は説得力がある」「コレステロールは高いほうが病気にならないというのは説得力がある」というのはその説自体の真偽を別にすれば、そのように考えること自体はまあいいだろう。だが、この自分自身の判断と他者(専門家)の判断が比較されなかったり、あるいは比較されても適切に処理されなかったりといった不適切なメタ思考(この用語が適切かどうかちょっと怪しいが)が問題だ、ということになるのだろうと考えている。

素人が判断するのはいいだろう。だが、それが素人の判断に過ぎないことは自覚しておいて欲しいと思う。

また、素人が何らかの提言をするのも慎重にならなければいけないと思う。司法制度がおおむね正しく運用されてきていることを認知しておきながら、そのシステムのルールを逸脱してまで「彼は冤罪だと思うので再審すべきだ」などと主張するのはおかしいと思う。そのルール自体に問題があると主張したり、ルールの範囲内で主張する分には構わないと思うけれど。中西も「学会やあらゆる紙面、テレビ等は両方の意見に対して開くべき時と思っている」とまで書かなければ、そんな批判はされなかったように思う。最低限のチェック(ピアレビュー)を経た結果でなければほとんど考慮に値しないと考えるのが現代で確立されたシステムであり、それを中西が受け入れているのであれば、学会等に対してものを言うのではなく、槌田に対して「何が何でもピアレビューを通して論文にすべきだ」と叱咤激励すべきだったろう、自分がかつてそうしたように。それだったらたいした問題ではなかったのになあ。

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2006年7月11日 (火)

中西批判の整理

ピアレビューをどの程度信用すべきかにTBが来たし、まだ書き足りない部分もあったので、今回は少し問題を整理し、何を問題にしており、何を問題にしていないのかを明確にしてみよう。

どうも今回の中西氏の言動は、たとえて言うなら「過去冤罪の被害にあった人が、冤罪を主張する犯罪者(実は真犯人)の手記を読んだだけで冤罪だと信じちゃった」という構造に近いであろうと思う(べつに槌田氏が犯罪者であるとか犯罪行為をしていると言っているわけではない、念のため)。

まずは、何を批判していないのかについて語ろう。ピアレビュー制度がときには異端排除という誤った行為を行ってしまうという指摘は、一般論としては正しい。また、中西氏がピアレビューについて何らかの提言を行ったとしても、それはべつに咎め立てするような類のものではないだろう。私は中西氏の一連の発言で信用を落としたと思っているが、だからといって中西氏がピアレビューについて何らかの提言をしたとしても、そのこと自体は構わないと思う。また、その中身についても私は特に否定的ではない。実行するうちに問題が出てくるかもしれないけれど、それに対する批判等はまた今回の話とは別個に議論されるべきだろうと思う。

では何を批判しているかというと、中西氏がピアレビュー制度を正しく運用していないことに尽きる(槌田論関連はさておき)。だいたいピアレビュー制度ってのは、専門的な知識を有しない人でも科学的仮説を評価できるように、その人に成り代わって別の専門家が評価する制度なんだから、程度問題はあれ、レビューアーを信用しないとピアレビューの意味がないのだ。異端論排除に使われるとか、レビューアーが時折過ちを犯すなんて織り込み済みの上で、それでも信用しないといけないのだ。だって、素人がレビューアーの判断が間違っているかどうかなんて判断できるわけないでしょ?たとえ専門家が間違うことがあったとしても、素人が判断するよりはましだからこそピアレビュー制度の価値があるわけでしょ?

実際、ピアレビュー制度を信用するかどうかを恣意的に判断することによってピアレビュー制度のニセ科学排除という機能が失われてしまうことは、今回の中西氏自身の言動がはっきりと証明している。彼女は素人である自分がレビューアーの判断が間違っているかどうか判断できるというカンチガイを犯したのだ。しかも素人なら誰でもできるというのではなく、自分だけには判断できるというカンチガイだ。

ピアレビュー制度の欠点を指摘するのは結構。でもそれをたてにとって「この問題はレビューアーは正しい判断をしている」とか「この問題はレビューアーは間違った判断をしている」とか素人が判断するのは自分の能力を過信した馬鹿の所業だよ。

中西氏がピアレビュー制度の欠点に直面してきたという事実はあるだろう。でも結局はそのシステムから逸脱することなく、きちんと手続きを踏んでここまで来れたんだから、言われているほど致命的な欠点ではないのだろうと思っている。

これまで環境問題、ひいては科学界に多く貢献してきた中西を馬鹿と呼ぶことに多少抵抗はあるけれど、たとえ相手が誰であれ、馬鹿なことを言ったら馬鹿にされても仕方がないと思っている。でないと、これまで斬ってきた馬鹿に対して申し訳がたたない気がするのだ。

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2006年7月 5日 (水)

ピアレビューをどの程度信用すべきか

今週の中西準子の雑感を読んで少々驚いた。ピアレビュー制度に一定の評価を与えていたからだ。以前の雑感「原子力発電と温暖化」を読んだ限りでは中西氏はピアレビュー制度に否定的であると思っていたからだ。

以前の雑感では「CO2温暖化説は間違っている」(槌田敦著)をレビューしてこのように書いていた。

最後に、学会誌の問題点に触れている。CO2温暖化説に批判的な論文は定評ある学術誌には掲載されないとして、日本物理学会誌について言及している。

この中の「CO2温暖化説に批判的な論文は定評ある学術誌には掲載されない」ってのは実際は「槌田論文はピアレビューの結果掲載されなかった」ってことだ。そのあたりの事情は槌田本人が文中で説明しており、中西氏もそれを読んでいるはずだ。そして続けてこう書く。

その意味で、学会やあらゆる紙面、テレビ等は両方の意見に対して開くべき時と思っている。特に学会には注意してほしいと思う。多数決で統一見解を出すことが必要な時もあるだろうが、多数派の意見が間違いかもしれぬという思いを常に残した、運営、議論の場の設定がどうしても必要だと思う。

これを読んで私は「ピアレビュー制度には問題があるので、ピアレビューなどせずに公表しろ」と言っているのだと解釈していた。ところが今回の雑感では

例えば、英国のRoyal Societyはそのような広報活動に力を入れていて、ナノ技術が危険という見解をチャールズ皇太子が発表した翌日には、それに対する批判を発表したと聞いている。

Royal Societyのそのような活動はとても良い。しかし、それは学会における多数派意見の発表にすぎない。似非科学に対する問題や、これまでの科学で判断できる問題ならば、多数派の意見が正しい確率は高いと思うが、新しい問題について、多数派の意見が正しい確率はそう高くはないように思う。

と、現行のピアレビュー制度について一定の効果があることを認めている。

つまり中西氏が言っているのはこういうことだったようだ。「ピアレビューによる評価は似非科学に対しては有効だが、そうでない場合もある。槌田説に関してのピアレビューには問題があったのでピアレビューの結果を信用せずに公表しろ」

まあ確かに中西氏の言うように現行のピアレビュー制度は完璧じゃない。槌田説に関してだってその判断が完璧であるという保証はない。それを改善しようという気持ちもわかる。

でもね、その分野のしろうとであるにもかかわらず、自分の判断でピアレビューを信用したりしなかったりっていう態度はありなの?

自分が熟知している分野というのならば、ピアレビューに左右されずに自分で判断するってのはべつに問題にはならないだろう。でも、中西氏が判断したのは、それについてしろうとだと自認する分野の話だ。どうしてしろうとがピアレビューの結果が信用できるかどうか判断できるの?自分ではで正しいかどうか判断できないからこそピアレビュー制度があるんじゃないの?

もし私が中西氏だったらこう判断するだろう。

「確かに槌田説には説得力があるように思える。しかし専門家のピアレビューによると学会誌で公表するに値しない説のようだ。私には納得しがたいが、私は温暖化のメカニズムについて勉強したことがないしろうとである。ピアレビューが間違っている可能性はそれなりに留保しつつ、とりあえずは専門家の言うことを信用しよう」

結局、私と中西氏の違いは自分が熟知していない領域における専門家への信用度にあるようだ。少なくとも私には

素人の自分の判断 > 専門家の判断

という傲慢な振る舞いをすることはできない。

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2006年7月 4日 (火)

槌田敦「CO2温暖化説は間違っている」を読む(4)

ニセ科学としての槌田温暖化人為説否定論

理論に対する具体的な批評は前回で終わりにして、今回はニセ科学批判という見地から槌田論を論じる。

「科学ではないのに科学を標榜しているもの」には疑似科学、ニセ科学、トンデモなどいろいろな呼び方があるのだが、今回は菊池誠氏の使用法に従ってニセ科学を用いることにする。

まずは、ニセ科学(疑似科学)がいったいどのように定義されているのかをみてみよう。

Wikipediaの疑似科学の項では、

疑似科学(ぎじかがく)は英語Pseudoscienceの訳語である。学問学説理論知識、研究等のうち、その主唱者や研究者が科学であると主張したり科学であるように見せかけたりしていながら、科学の要件として広く認められている条件(科学的方法)を十分に満たしていないものを言う(例えば、科学的方法をとっていないため科学雑誌への論文投稿が認められない、そのため査読も経ていないものなど)。これらが、科学であるかのように社会に誤解されるならば、そのことが問題であると言われる。

とされている。また、松田卓也氏によると、

私は現代の正統科学とは、科学的な方法論、科学的な作法、マナーに則って行われるものであると定義します。どういうことでしょうか。それはひとつには発表の方法にあると思います。

 科学者は研究して、一定の成果を得られるとそれを論文に書きます。そして「レフェリー」のある、いわゆる「権威ある学術雑誌」に投稿します。レフェリーは普通は、その分野の権威者や、その問題をよく知っている人から、雑誌の編集者によって選ばれます。匿名のレフェリーは、その論文が、間違っていないか、新しい知見があるか、発表する価値があるか、といった観点から評価します。そして、その論文が、そのまま発表できる、小修正すれば発表できる、発表するためには大きな修正を必要とする、他の雑誌に投稿すべき、発表の価値がない、などの結論を下します。レフェリーの数は一名ないし二名です。二名の場合、両者の意見が一致すればよいのですが、そうでない場合、編集者の要請で第三のレフェリーが任命されることもあります。
 このようなレフェリーの意見は論文の著者に返送されます。そのまま出版とか、小修正の場合は大した問題はないのですが、大修正とか出版の価値なしと認められた場合は、著者とレフェリーの論争になります。編集者が適切な判断を下す場合と、決定に全然タッチしない場合があります。著者はレフェリーの意見に納得できないときは、レフェリーの交代を要求したり、あるいは論文を取り下げて他の雑誌に投稿することもできます。

(中略)

 このようなレフェリー制度をピアーレビューといいます。同僚評価と訳されています。現代科学の方法論、マナーとは、まさにこの同僚評価制度にあるのです。同僚評価制度を通らないで、科学的主張をすると、科学者の間で正統な認知を得られません。疑似科学はこのシステムに乗っていないのです。

となる。どちらにしろ、科学の要件が成り立つための方法論を満たしているかどうか、特に査読(ピアレビュー)制度を経ているかどうかが正統な科学とニセ科学とを分ける判断材料となるであろう。

ではなぜピアレビュー制度が重要なのだろう?それは、第三者が評価し、検証することによって論理的な間違い、データの不備などの誤りが排除されるからだ。一方、一般書はというと、そのようなチェックを受けることはない。専門に詳しくない一般書の想定読者が誤りを見つけるのは難しい。その結果、誤りを含んだ説が世間に広まることになる。

そういった観点から槌田温暖化人為説否定論を評価してみよう。いわゆる槌田説は一般書や学会、Web上での発表はあるものの、これまで一度も査読付きの論文として掲載されたことはない。槌田はこれに対して

CO2温暖化説に批判的な論文は定評ある学術誌には掲載されない

p136

としているが、実際はそうではなく、これまで見てきたような根本的な誤りがあるから掲載されないだけだ。ただ残念なことに中西準子はこれを真に受けちゃったようで、自身のホームページでこれを「学会誌の問題点」としてしまっている。

確かに、既存のパラダイムに合致しない説は論文として掲載されにくいという傾向はある。これは前述の松田氏も指摘している。

 科学者はさまざまなパラダイムのもとで研究をしています。ですから投稿された論文がパラダイム、定説に反する場合には、拒否反応が起きてリジェクトされやすくなります。実際、ノーベル賞を取ったような画期的な論文が拒否された例はいくらでもあります。

しかし、話はそれで終わらない。

 これらの例は定説に反する説ですが、唱えた人たちは、きちんとした科学的訓練を受けた立派な科学者で、しかもその説は、レフェリーのある論文に掲載されて、世界中の科学者の検証を受けています。上記の例は現在でも多くの支持を集めていないので、多分間違いでしょう。しかし私が強調したいことは、これらは異端の科学とよぶべきで、疑似科学ではありません。

つまり、定説に反するけれども科学の作法はしっかり踏まえた異端の科学と、定説に反するだけでなく科学の作法すら守られないニセ科学が存在するということだ。

では、これらを区別する基準というのは存在するのだろうか。おそらくこの2つの境界にはグレーゾーンが存在し、それらをはっきりと分けるのは困難だろう。しかし、典型的な異端の科学とニセ科学を見分けることは不可能ではないはずだ。それを見分けるための傾向としては、例えば以下のようなものが挙げられる。

1.自分を天才だと考えている。

2.仲間たちを例外なく無知な大馬鹿者と考えている。

3.自分は不当にも迫害され差別されていると考えている。

4.もっとも偉大な科学者や、もっとも確立されている理論に攻撃の的を絞りたいという強迫観念がある。

5.複雑な専門用語を使って書く傾向がよく見られ、多くの場合、自分が勝手に創った用語や表現を駆使している。

マーティン・ガードナー「奇妙な論理」より

その他には、既存の説を熟知しているかどうか、またピアレビュー制度などの現在の科学の作法について理解を示しているかどうか、陰謀論を用いているかどうか、あたりだろうか。当然のことだが、既存の説を熟知しなければそれに対抗しうる新説を提出することはできない。既存の説を熟知せずに反論するのは「地球が丸いという説は間違っている。なぜなら、地球が丸いとするならば、地球の裏側にいる人は下に落っこちてしまうはずだからだ」のような主張を行うのに等しい。また、異端の科学の提唱者はピアレビュー制度に悩まされながらもそれを否定することなしに、その制度に則って根気強く挑戦し、最終的には成功している。ニセ科学者は自説が受け入れられない原因を自説の不備には求めず、自説を否定する他人に求めるので、ピアレビュー制度に拒否反応を示し、また自説を否定する動機として陰謀論を持ち出してくる。

では、これらニセ科学(者)によくある傾向に槌田氏および槌田説がどの程度合致するか5段階で評価してみよう。

  • 自分を天才だと考えている。

天才だとは言っていないが、文章の端々にそのようなニュアンスは見られる。4か。

  • 仲間たちを例外なく無知な大馬鹿者と考えている。

仲間たちってのは自分以外の研究者ってことか。間違いなく5。

  • 自分は不当にも迫害され差別されていると考えている。

「全体主義がはびこり、主流に反対を唱えると強烈な反対に遭う。ファシズムだ」と言っている。5。

  • もっとも偉大な科学者や、もっとも確立されている理論に攻撃の的を絞りたいという強迫観念がある。

槌田はCO2温暖化説だけでなく、オゾンホールフロン原因説やゴミのリサイクルなど確立された理論を攻撃している。5。

  • 複雑な専門用語を使って書く傾向がよく見られ、多くの場合、自分が勝手に創った用語や表現を駆使している。

「空冷と水冷の地球エンジン」などというオリジナル用語を使う。ただし頻度は多くないし、まるでデタラメという訳でもないので3。

  • 既存の説を熟知していない

これまで見てきたように全く熟知していない。5。

  • ピアレビュー制度などの現在の科学の作法について理解を示していない

「学問を殺す閲読制度」などと評している。5。

  • 陰謀論を用いている

「温暖化説の仕掛け人は原発業界」と、温暖化で得をするという理由のみから原発業界の陰謀であると根拠のない主張を行っている。5。

以上のように、多くの点で槌田氏の言動はニセ科学者の言動と同じような傾向を示すことが分かる。超能力のように反証不可能性の性質を持つような説ではないが(それゆえすでに反証されまくっている)、かえってそれが正統な科学っぽさを醸し出しているのかもしれない。

結論としては、槌田氏あるいは槌田論はほぼ間違いなくニセ科学(者)に分類して差し支えない。槌田氏本人は自分が異端の科学者であることを自称し、異端が迫害されていると訴え、異端を擁護するよう主張している。科学者の中にはそれに同調する向きもある。でも、槌田論はこれまで見てきたように明らかにニセ科学であり、異端の科学ではない。異端の科学とニセ科学ははっきりと区別すべきだ。

確かに現在の科学のシステムは完璧じゃないし、それを担っている科学者の中には異端を排除するような動きをとる人もいるだろう。そういった点はできるだけ改善すべきだろう。でも、たとえそういった欠点があったとしても、現在の科学のシステムを否定するのは得策ではない。完璧ではなくても、現状で我々がとりうる方法としては最善の手法なのだ。そのシステムがあるからこそ、素人では判別できない科学的仮説の確からしさの順位付けを行うことによって、明らかに間違っている説をふるい落とすことができるのだ。間違って正しい説もふるい落とされることはあるけれど、その割合はそんなに高いものじゃない。高そうに見えるのは、ふるい落とされた説の論者が自分の間違いに気付かずにそう吹聴しているからだ。また仮に間違ってふるい落とされたとしても、ちゃんとした証拠を集めてちゃんとした発表をしていればいつかどこかで誰かが拾ってくれる。現在の科学のシステムを否定することによってニセ科学がはびこることはあっても、異端の科学が報われるってことはほとんどないだろう。

他にも書きたいことはあると言えばあるが、あまり冗長になっても仕方がないので、ひとまずこのくらいで槌田敦「CO2温暖化説は間違っている」を読むシリーズを終わりにしようと思う。必要に応じて小ネタを取り上げるかもしれませんが。

この本が出た当初は正直ここまで関わる価値すらないと無視していたが、環境界の大御所が好意的に取り上げるの見て、社会への影響が無視できなくなるだろうと予測し、一連のレビューを書き上げた。参考になれば幸いだ。

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2006年6月15日 (木)

トンデモの片棒を担いじゃった中西準子

環境問題に関心がある人で中西準子の名を知らない人はそうはいないだろう。リスク論の専門家であり、環境リスク学―不安の海の羅針盤などの著作などでも知られる。その中西準子がトンデモにコロッと騙されちゃったという話。

問題の文章はこちら。

雑感349-2006.6.13「原子力発電と温暖化」

前半は「原子力と環境」(中村政雄著、中公新書クラレ)の書評となっている。こちらについてはまだ未読だし、評するほどの知識もないので飛ばしておこう。

次からが問題の部分。

「CO2温暖化説は間違っている」(槌田敦著)

この本は、槌田敦さんがほたる出版から出しているのだが、「原子力と環境」を読んだ方には、逆の見方を知るという意味で、この本も読むことを勧めたい。槌田さんは、(かつて)所謂市民派研究者の代表的な人で、エントロピー学会の創設者の一人である。彼は、この本の中で徹底的にCO2による地球温暖化説を否定する。大気中二酸化炭素濃度の増大は、気温の上昇の結果であり、原因ではないと主張する。それは、なかなか説得力がある。

槌田敦かよ。件の本は取り寄せ中で未読だが、今年2月に開催された温暖化の原因と対策についての賛否討論会レジュメアマゾンのレビューを読む限り、いつものやつであろうと推察される(読んだらまたフォローします、本当は買いたくなどなかったのだが)。ひとことで言うと槌田説のキモであるCO2自然起源説はトンデモあるいは疑似科学であり、科学ではない。具体的にどのあたりがトンデモかはここでは触れない。知りたい人は私の記事温暖化いろいろ「温暖化懐疑派・否定論」 の記事明日香壽川(東北大学)らのコメント討論会で使われたパワーポイントなどを参照されたい。そのようなトンデモ説を中西氏は信じちゃったようだ。まあ、温暖化のメカニズムについて勉強したこともないしろうと(*1)だから、説得力があると思ってしまっても仕方がない点はあるかもしれないが、「温暖化説の仕掛け人は原発業界」とか「CO2温暖化説に批判的な論文は定評ある学術誌には掲載されない」とかいうトンデモ論に典型的に見られる陰謀論(*2)がちりばめられているにもかかわらず、それには気付かなかったのだろうか。というより、むしろ積極的に支持している風でもある。槌田説の論文が定評ある学術誌には掲載されないのはCO2温暖化説に批判的だからではなく、間違っているからに過ぎない。実際、CO2温暖化説に批判的な論文が定評ある学術誌に掲載された例はある。よしんばCO2温暖化説に批判的な論文が掲載されないという風潮があったとしても、掲載されないという事実のみから学会にこのような風潮があると結論づけることはできない。

問題は単にトンデモを信じちゃったことのみにとどまらない。

では、おまえは?

では、おまえはどう考えるのか?と聞かれそうである。

答えは、相当日和見である。二酸化炭素による温暖化はあり得るが、今の学説やモデルでの推計がどの程度正しいかは分からない、したがって、二酸化炭素排出を一定程度削減すべきだが、がむしゃらに二酸化炭素排出を削減すればいいというものでもない(逆の問題が起きるような対策には注意が必要)。冷静に観測して、証拠を集めるだけの時間もあるし、また、厳しく削減すれば、一挙に生活を直撃するし、資源戦争を誘発するかもしれないような難しく重大な課題だから、もっと、科学的な根拠が共有されなければ、やはり無理なのだと考えている。

その意味で、学会やあらゆる紙面、テレビ等は両方の意見に対して開くべき時と思っている。特に学会には注意してほしいと思う。多数決で統一見解を出すことが必要な時もあるだろうが、多数派の意見が間違いかもしれぬという思いを常に残した、運営、議論の場の設定がどうしても必要だと思う。これは、6月号の中央公論に書いたことと同じなのだが。

温暖化対策について日和見主義であること自体は別に問題ではないように思う。問題はその次だ。学会やあらゆる紙面、テレビ等は両方の意見に対して開くべき、って言うけれど、そもそも学会が開かれていないという認識って正しいの?おそらくこれは「CO2温暖化説に批判的な論文は定評ある学術誌には掲載されない」という主張を受けてのものだろうが、こういった風潮が実際にあるのかどうか、どうして温暖化のメカニズムについて勉強したこともない中西氏に判断できるのだろう?どうして「単に間違いだらけなので掲載された」わけではないと判断できるのだろう?このような判断は温暖化メカニズムに熟知した者でないと無理であると私は思う。それとも中西氏は一般書を一冊読んだだけで温暖化メカニズムを熟知したつもりになっちゃったのかな?

中西氏の著書を読むと、これまで氏が学会その他が抱える不条理な面に直面してきたという点があり、それへの反発が現在の氏を形作ったとも言えそうだ。確かに学会やマスコミの姿勢は時として偏向することがあるのは事実だろう。そういった体質を批判しようとする氏の姿勢は理解できないわけではない。しかし、だからといって両論を熟知していない者が安易に両論併記などと主張すべきではあるまい。それはかえって専門家による相互批判とそれによる理論の取捨選択で成り立ってきた学会本来の良さを消してしまうことになるだろう。議論されずに捨てられた理論に対して、その理論を熟知した者が「もっと議論せよ」と言うのは正しいが、議論されて(あるいは議論されるまでもなく)捨てられた理論に対して、その理論を熟知していない者が「もっと議論せよ」と言うのは戯言にしか過ぎない。中西氏がやっているのは後者の方だ。氏の主張は、進化論や相対性理論に対して無知な者が「創造論や相対性理論は間違っているという説はあり得るかもしれない。学会やマスコミはもっと両方の意見に対して開かれるべきだ」という主張をしているのと何ら変わりがないように私には思えた。

また、マスコミの偏向報道関連についてはマスコミの温暖化報道は偏向しているかで既に述べた通りだ。

結局のところ、一般書一冊で「わかっちゃった」つもりになったという自己の能力への過信がこのような愚論を導いているのではないだろうか。「なかなか説得力がある」と考えた時点で「自分の持っている浅薄な知識ではそう思えるだけかもしれない」という自己批判精神があればこのような事態にはならなかったように思う。このように、実績を積み上げてきた人物が調子に乗って能力以上のことをしようとしてしまうという症状は老害の症状の一つだが、中西氏も耄碌したってことなのか。少々辛辣な批判だったかもしれないが、氏の実績と評判を考えると、このくらいやらないと悪影響が広まる可能性が高いように思える。トンデモの片棒を担いだ、っていう表現も多少大げさかもしれないが、結果的に見るとそうなってしまったように思える。本人の意志でやったわけではないのだろうが。

(*1)本人の弁による。

(*2)「人類の月面着陸というねつ造はアメリカの陰謀」とか「進化論に批判的な論文は定評ある学術誌には掲載されない」とか。

(追記:懐疑論への反論を追加しました。2006/06/16)

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2006年4月17日 (月)

「論争相手のコメントを全部削除するひとについて」について

+ C amp 4 + の最近の記事から。

アンフェアっぷりからいえば、コメント欄からあたかも最初からいなかったかのように論争相手を消して自分だけ堂々と生き残る、みたいなやり方は、大変見苦しいものである。はじめから論争になっておらず、スパムまがいの行為に困っていたというのであれば話はわかるのだが、真摯に議論を積み重ねておきながら、やっぱお前むかつくから消してやる!(おそらくこれがホンネであろうと推測される)みたいな態度はいかがなものか。

同感である。私も以前経験しているだけに、当事者から見たらそりゃないよね、って思ってしまう。しかもその人、「リンクと批判、大いに結構です」って書いてあったのに。

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2006年4月13日 (木)

マスコミの温暖化報道は偏向しているか

このところ「地球温暖化」等のキーワードでググってみると、ブログや掲示板等で「マスコミの温暖化報道は偏向しており、温暖化が二酸化炭素のせいであることが科学的に証明されているかのように報道されている。だが実際調べてみると、温暖化が二酸化炭素のせいであることが証明されたというには程遠い、単なる仮説に過ぎないことがわかる。マスコミはこれまでのような偏向報道を止めて、もっと多様な考え方を紹介すべきだ」といったような論調に出くわすことがある。

私はこのような主張を読むたびに考え込んでしまう。確かに現状認識としてはほとんど正しいことを言っている。にもかかわらず、この手の主張にはどうしても諸手を挙げて賛成できないのだ。

地球温暖化の最大の要因が二酸化炭素である、という説(以降、温暖化人為説と呼ぶ)は完全に証明されたものである、といった類のものでないことは言わずもがなだろう。しかし、だからといって単なる仮説に過ぎない、というのも言い過ぎだ。全ての科学理論は完全に証明されることはないので、全ての科学理論は仮説である、というのと同じ意味では温暖化人為説は仮説ではあるのだろうけれど。

私は、このような温暖化人為説を単純に仮説なのか、それとも証明されたのかという2分法で考えるのは得策ではないと思う。もっとアナログ的な、確からしさという尺度で考えるべきだと思う。温暖化人為説の確からしさとしては生命宇宙起源説よりは確からしい一方、大陸移動説よりはあやふやだろう。程度表現でいうなら、専門家の多くが正しいと考えている程度の定説、といった辺りだろうか。

だからといって、私は単純にマスコミを「証明されたかのような報道をしている」と批判する気にはなれない。それを言ったら、大陸移動説だって完全に証明されたわけでもないのに証明されたかのような報道をしている、と批判しなければいけなくなるだろう。どんな科学理論にしろ完全に証明されてはいないのだから、上のような批判を無制限に行ったら、どのような理論も批判の対象となってしまう。要するに、そもそも証明されたかのような報道をもって字義通り証明されたと理解すること自体が間違っているのだ。決めつけのような報道があってもそれが将来覆される可能性があることを考慮しつつ受け入れる、というのが正しい受け止め方のはずなんだが、そのような約束事を理解せずに鵜呑みにしてしまうと騙された気分になってしまうのだろう。

ここで終わると、「問題の程度が違うだろう」という反論が来そうなので補足しておこう。確かに、上で書いたように温暖化人為説の確からしさはそれほど高いものではない。決めつけのような報道が許されるとはいっても、あまりにも確からしさのレベルが低いものまで許してしまうとかえって混乱を助長させてしまうだろう。それを防ぐという意味では、あやふやな理論を決めつけで報道すべきではない、という批判はそれなりに意味のある行為だ。

ただし、そのような批判は、批判する者が理論について、その確からしさのレベルを十分理解してはじめて意味を持つということを理解すべきだ。その理論について精通していない者が理論の確からしさについて言及できようはずがないことは言うまでもなかろう。

例えば、アメリカ教育界における進化論と創造論の問題を取り上げてみよう。現代科学では進化論はかなり確からしいとされている一方、神が一日にして全ての生物種を造ったという創造論は科学的には間違っているとされている。生物進化について正しい理解をしている者ならば、「進化論について証明されたかのような教育をしているのは偏向教育であり、創造論も教科書に取り上げるべきだ」というような主張は決して行わないだろう。そのような馬鹿げた主張をするのは決まってその理論を理解していない者だ。

進化論と創造論のような、真偽がかなりはっきりしている理論に比べると、温暖化人為説に関する理論はもっと混沌としている。温暖化人為説は進化論ほど確からしくはないし、それを否定するような理論も温暖化太陽説のように考慮に値するものから、二酸化炭素自然起源説のような取るに足らないものまで様々だ。そういう意味では、決めつけのような報道への批判は進化論と創造論の問題と比べるとそれなりに意義がある可能性はあるだろう。ただし、それは上でも書いたように、温暖化問題について正しく理解している者が行うべきことであって、理解が不十分な者が行うべきことではあるまい。

・・・とは言うものの、マスコミの中にも偏向報道だと思わざるをえない場合があって、それが混乱を生んでいるというのは否定できないのだけれど。

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