ニセ科学としての槌田温暖化人為説否定論
理論に対する具体的な批評は前回で終わりにして、今回はニセ科学批判という見地から槌田論を論じる。
「科学ではないのに科学を標榜しているもの」には疑似科学、ニセ科学、トンデモなどいろいろな呼び方があるのだが、今回は菊池誠氏の使用法に従ってニセ科学を用いることにする。
まずは、ニセ科学(疑似科学)がいったいどのように定義されているのかをみてみよう。
Wikipediaの疑似科学の項では、
疑似科学(ぎじかがく)は英語Pseudoscienceの訳語である。学問、学説、理論、知識、研究等のうち、その主唱者や研究者が科学であると主張したり科学であるように見せかけたりしていながら、科学の要件として広く認められている条件(科学的方法)を十分に満たしていないものを言う(例えば、科学的方法をとっていないため科学雑誌への論文投稿が認められない、そのため査読も経ていないものなど)。これらが、科学であるかのように社会に誤解されるならば、そのことが問題であると言われる。
とされている。また、松田卓也氏によると、
私は現代の正統科学とは、科学的な方法論、科学的な作法、マナーに則って行われるものであると定義します。どういうことでしょうか。それはひとつには発表の方法にあると思います。
科学者は研究して、一定の成果を得られるとそれを論文に書きます。そして「レフェリー」のある、いわゆる「権威ある学術雑誌」に投稿します。レフェリーは普通は、その分野の権威者や、その問題をよく知っている人から、雑誌の編集者によって選ばれます。匿名のレフェリーは、その論文が、間違っていないか、新しい知見があるか、発表する価値があるか、といった観点から評価します。そして、その論文が、そのまま発表できる、小修正すれば発表できる、発表するためには大きな修正を必要とする、他の雑誌に投稿すべき、発表の価値がない、などの結論を下します。レフェリーの数は一名ないし二名です。二名の場合、両者の意見が一致すればよいのですが、そうでない場合、編集者の要請で第三のレフェリーが任命されることもあります。
このようなレフェリーの意見は論文の著者に返送されます。そのまま出版とか、小修正の場合は大した問題はないのですが、大修正とか出版の価値なしと認められた場合は、著者とレフェリーの論争になります。編集者が適切な判断を下す場合と、決定に全然タッチしない場合があります。著者はレフェリーの意見に納得できないときは、レフェリーの交代を要求したり、あるいは論文を取り下げて他の雑誌に投稿することもできます。
(中略)
このようなレフェリー制度をピアーレビューといいます。同僚評価と訳されています。現代科学の方法論、マナーとは、まさにこの同僚評価制度にあるのです。同僚評価制度を通らないで、科学的主張をすると、科学者の間で正統な認知を得られません。疑似科学はこのシステムに乗っていないのです。
となる。どちらにしろ、科学の要件が成り立つための方法論を満たしているかどうか、特に査読(ピアレビュー)制度を経ているかどうかが正統な科学とニセ科学とを分ける判断材料となるであろう。
ではなぜピアレビュー制度が重要なのだろう?それは、第三者が評価し、検証することによって論理的な間違い、データの不備などの誤りが排除されるからだ。一方、一般書はというと、そのようなチェックを受けることはない。専門に詳しくない一般書の想定読者が誤りを見つけるのは難しい。その結果、誤りを含んだ説が世間に広まることになる。
そういった観点から槌田温暖化人為説否定論を評価してみよう。いわゆる槌田説は一般書や学会、Web上での発表はあるものの、これまで一度も査読付きの論文として掲載されたことはない。槌田はこれに対して
CO2温暖化説に批判的な論文は定評ある学術誌には掲載されない
p136
としているが、実際はそうではなく、これまで見てきたような根本的な誤りがあるから掲載されないだけだ。ただ残念なことに中西準子はこれを真に受けちゃったようで、自身のホームページでこれを「学会誌の問題点」としてしまっている。
確かに、既存のパラダイムに合致しない説は論文として掲載されにくいという傾向はある。これは前述の松田氏も指摘している。
科学者はさまざまなパラダイムのもとで研究をしています。ですから投稿された論文がパラダイム、定説に反する場合には、拒否反応が起きてリジェクトされやすくなります。実際、ノーベル賞を取ったような画期的な論文が拒否された例はいくらでもあります。
しかし、話はそれで終わらない。
これらの例は定説に反する説ですが、唱えた人たちは、きちんとした科学的訓練を受けた立派な科学者で、しかもその説は、レフェリーのある論文に掲載されて、世界中の科学者の検証を受けています。上記の例は現在でも多くの支持を集めていないので、多分間違いでしょう。しかし私が強調したいことは、これらは異端の科学とよぶべきで、疑似科学ではありません。
つまり、定説に反するけれども科学の作法はしっかり踏まえた異端の科学と、定説に反するだけでなく科学の作法すら守られないニセ科学が存在するということだ。
では、これらを区別する基準というのは存在するのだろうか。おそらくこの2つの境界にはグレーゾーンが存在し、それらをはっきりと分けるのは困難だろう。しかし、典型的な異端の科学とニセ科学を見分けることは不可能ではないはずだ。それを見分けるための傾向としては、例えば以下のようなものが挙げられる。
1.自分を天才だと考えている。
2.仲間たちを例外なく無知な大馬鹿者と考えている。
3.自分は不当にも迫害され差別されていると考えている。
4.もっとも偉大な科学者や、もっとも確立されている理論に攻撃の的を絞りたいという強迫観念がある。
5.複雑な専門用語を使って書く傾向がよく見られ、多くの場合、自分が勝手に創った用語や表現を駆使している。
マーティン・ガードナー「奇妙な論理」より
その他には、既存の説を熟知しているかどうか、またピアレビュー制度などの現在の科学の作法について理解を示しているかどうか、陰謀論を用いているかどうか、あたりだろうか。当然のことだが、既存の説を熟知しなければそれに対抗しうる新説を提出することはできない。既存の説を熟知せずに反論するのは「地球が丸いという説は間違っている。なぜなら、地球が丸いとするならば、地球の裏側にいる人は下に落っこちてしまうはずだからだ」のような主張を行うのに等しい。また、異端の科学の提唱者はピアレビュー制度に悩まされながらもそれを否定することなしに、その制度に則って根気強く挑戦し、最終的には成功している。ニセ科学者は自説が受け入れられない原因を自説の不備には求めず、自説を否定する他人に求めるので、ピアレビュー制度に拒否反応を示し、また自説を否定する動機として陰謀論を持ち出してくる。
では、これらニセ科学(者)によくある傾向に槌田氏および槌田説がどの程度合致するか5段階で評価してみよう。
天才だとは言っていないが、文章の端々にそのようなニュアンスは見られる。4か。
仲間たちってのは自分以外の研究者ってことか。間違いなく5。
「全体主義がはびこり、主流に反対を唱えると強烈な反対に遭う。ファシズムだ」と言っている。5。
槌田はCO2温暖化説だけでなく、オゾンホールフロン原因説やゴミのリサイクルなど確立された理論を攻撃している。5。
「空冷と水冷の地球エンジン」などというオリジナル用語を使う。ただし頻度は多くないし、まるでデタラメという訳でもないので3。
これまで見てきたように全く熟知していない。5。
「学問を殺す閲読制度」などと評している。5。
「温暖化説の仕掛け人は原発業界」と、温暖化で得をするという理由のみから原発業界の陰謀であると根拠のない主張を行っている。5。
以上のように、多くの点で槌田氏の言動はニセ科学者の言動と同じような傾向を示すことが分かる。超能力のように反証不可能性の性質を持つような説ではないが(それゆえすでに反証されまくっている)、かえってそれが正統な科学っぽさを醸し出しているのかもしれない。
結論としては、槌田氏あるいは槌田論はほぼ間違いなくニセ科学(者)に分類して差し支えない。槌田氏本人は自分が異端の科学者であることを自称し、異端が迫害されていると訴え、異端を擁護するよう主張している。科学者の中にはそれに同調する向きもある。でも、槌田論はこれまで見てきたように明らかにニセ科学であり、異端の科学ではない。異端の科学とニセ科学ははっきりと区別すべきだ。
確かに現在の科学のシステムは完璧じゃないし、それを担っている科学者の中には異端を排除するような動きをとる人もいるだろう。そういった点はできるだけ改善すべきだろう。でも、たとえそういった欠点があったとしても、現在の科学のシステムを否定するのは得策ではない。完璧ではなくても、現状で我々がとりうる方法としては最善の手法なのだ。そのシステムがあるからこそ、素人では判別できない科学的仮説の確からしさの順位付けを行うことによって、明らかに間違っている説をふるい落とすことができるのだ。間違って正しい説もふるい落とされることはあるけれど、その割合はそんなに高いものじゃない。高そうに見えるのは、ふるい落とされた説の論者が自分の間違いに気付かずにそう吹聴しているからだ。また仮に間違ってふるい落とされたとしても、ちゃんとした証拠を集めてちゃんとした発表をしていればいつかどこかで誰かが拾ってくれる。現在の科学のシステムを否定することによってニセ科学がはびこることはあっても、異端の科学が報われるってことはほとんどないだろう。
他にも書きたいことはあると言えばあるが、あまり冗長になっても仕方がないので、ひとまずこのくらいで槌田敦「CO2温暖化説は間違っている」を読むシリーズを終わりにしようと思う。必要に応じて小ネタを取り上げるかもしれませんが。
この本が出た当初は正直ここまで関わる価値すらないと無視していたが、環境界の大御所が好意的に取り上げるの見て、社会への影響が無視できなくなるだろうと予測し、一連のレビューを書き上げた。参考になれば幸いだ。
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