2006年4月21日 (金)

池田清彦「環境問題のウソ」を読む:第1章(6)

第3節:人為現象それとも自然現象

この節では、世界の気温変動が人為的なものなのか、それとも単なる自然現象なのかを論じている。私が読む限り、この節が最悪。

先に述べたGISSの世界の気温の変動データによれば過去百年間に世界の平均気温は〇・五ー〇・七℃上昇した。一応これを信じるとしても、それは巷で言われて言われているようにCO2の人為的排出だけが原因のすべてだとはとても思われない。(中略)地球の平均気温は一丸四〇年から七〇年まで三〇年間で〇・二℃下降したにもかかわらず、CO2の濃度は三一〇ppmから三二五ppmまで急激に増大している。全世界の年間炭素排出量を見ると、一九四〇年ころまではせいぜい一〇億トンだったものが、一九七〇年には四〇億トンに増大している。これだけでも、人為的地球温暖化説はあやしいと私ならば思ってしまう。少なくとも地球の気温にはCO2以外の要因が働いていることは絶対に確かであろう。

p25-27

こういったコンピュータのシミュレーションモデルがデータ整合的にならないのはなぜなのか。より重大な原因を見落としているのではないか。もっとはっきり言えば、CO2濃度の人為的上昇のみを温度上昇の原因とするモデルは間違っているということだ。

p31

次に筆者は太陽活動について取り上げ、

 気象庁が一九八九年に発表したレポートには「地球全域の平均海面水温の長期変動は、太陽黒点数の長期変化とよく対応していること書かれ、過去一二〇年余りの変動グラフが載っている(図8)。これを見ると大腸黒点数が増加した時には水温が上がり、減少した時には水温が下がっていることがよくわかる。CO2の増加が温暖化の主因とする説では説明できなかった一九七〇年頃の低温も、太陽主因説でうまく説明できる。太陽黒点数はこの時期、その前後に比べずっと少なかったのである。

p33-34

と書いている。これらを読むと、筆者が人為的地球温暖化説についてまったく無知であることがよくわかる。要するに、筆者は人為的地球温暖化説がCO2濃度の人為的上昇のみを温度上昇の原因とする説だと誤解しているということだ。これはこのイラストを見てもよくわかる。

P32_1

だがしかし、そのような筆者の理解は明らかに間違っている。たとえば、IPCCの第三次評価報告書では過去の気候変動がCO2濃度等の人為的要因だけでも、太陽活動等の自然的要因だけでも再現が不十分で、両者をともに考慮することによって最もよく再現できると書かれている。ここでは筆者が指摘するようなCO2の増加が温暖化の主因とする説では説明できないとしている1970年頃の低温も再現されている(もちろん再現されているからといって、将来にわたってそのモデルの正しさが証明されるわけではないけれど)。
結局のところ、筆者が想像しているような、CO2のみを温暖化の原因と決めつけているような専門家は筆者の脳内にしか存在しないということなのだ。
現在専門家の間で議論が行われているとすれば、温暖化が人為現象なのか自然現象なのかという単純な議論ではなくて、温暖化には人為現象と自然現象のどちらがどの程度寄与しているのか、という程度問題の議論だろう。

これまでの歴史の中で、ある学説が、その学説を理解していない者による批判によって覆された例を私は知らないし、これからもないであろうと、私は思う。

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2006年4月 7日 (金)

池田清彦「環境問題のウソ」を読む:第1章(5)

やれやれ、やっとパソコンが復旧した。結構時間がかかってしまった。まあデータの消失がなかったのは不幸中の幸いか。ではひき続き「環境問題のウソ」を読む、の続き。

第2節:温暖化は昔もあった

この節では、千年から数百万年のオーダーで過去の気温を紐解き、昔も暖かかった時期もあるので、現在温暖化が進行しているからといって、その原因が即二酸化炭素であるとは言えない、と主張している。

この節はツッコミどころが少ないので、さらっといこう。

ホッケースティック問題

まずは千年単位の気候変動を論じている。要はホッケースティック問題というやつだ。この問題についてはこちらがよくまとまっているので、詳しく知りたい方は参照されたい。簡単に説明すると、IPCCで採用された年輪の分析による千年単位の気温の変動のデータは実情を反映していないのではないか、という問題だ。さらには元データが同じでも結果が違ってくるという問題もある。この問題については現在も論争が続けられている。個人的には年輪による分析は未だ発展途上と考えた方がよいように思う。

次に出てくるのは珊瑚礁の分析による水温の変動のデータだ。

この方法によるニューカレドニアの珊瑚礁の一七世紀からの分析結果を見ると陸上の気温より変動は少ないようだし、変動パターンも少し違う。(図4)。一九五〇~六〇年頃が水温が一番高くて、陸上のパタンとは一致しない。海中と陸上では温度変動のパタンが違うとすれば、地球表面の温度を決める要因は複雑で、CO2の増大イコール地球規模の温暖化といった単純な話にはならない、と考えた方が合理的だ。

p19-20

海中と陸上の温度のパタンとは一致しない、と単純に決めつけてしまっていいのだろうか。珊瑚のデータは1点であるのに対して、年輪や温度計のデータは平均値だ。以前も見たように、平均で見ると気温は上昇しているが、ここのデータを見ると必ずしもそうではなく、結構ばらついている。ということは、海水の温度だってばらついていたっておかしくない。比較するなら全球の気温と海水温、あるいはその地点での気温と海水温を比較しなければいけないだろう。ある地点の海水温と全球の気温を比較しても大して有益な情報は得られないだろう。

その次はさらに昔の気温の変動について紹介している。これについては特になし。

(4/12追記)

気象庁の「海洋の健康診断表」のページで海面水温の長期変化傾向(全球平均)を見ることができる。これを見る限りでは海面水温と陸上の気温との差はそれほどないように思える。

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2006年3月13日 (月)

池田清彦「環境問題のウソ」を読む:第1章(4)

今回はさし絵に対するツッコミ。

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p13

都市部に観測地点が多いからといって平均気温が必ずしも高めに出るとは限らない。ヒートアイランド現象などによる影響は補正してある。その補正が必ずしも正しいとは限らないが、平均気温が高めになるような補正であるとは限らない。田舎や海の観測地が少ないってのはごもっともだが、そもそも地球の平均気温を推定するために気温の観測をしていたわけではないので致し方ないところ。細かいところだと、CO2濃度はどこでも同じではない。昼間の森林では低いし、都市部では若干高くなる。CO2の2は下付き。

2

p14

衛星は空間的なばらつきは少ないが、時間的な変動があり得る。どちらが正確かは現時点では微妙なところだと思う。

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池田清彦「環境問題のウソ」を読む:第1章(3)

GISSの平均気温のデータの算出方法への疑問

今度はGISSの平均気温のデータの算出方法に疑問を呈する。

GISSの平均気温は世界各地六三〇〇ヵ所で測定した気温の平均である。先に記したように、この中に都市が多ければ、都市のローカル・ウオーミングの温度上昇が反映され平均気温は上昇する。CO2の濃度は都市でも田舎でもほとんど同じだから、もしCO2の濃度と気温の関係だけを調べたいと思えば、田舎の気温を集めてそれらの平均値を採用すべきであろう。GISSは、このような批判を考慮して、都市の気温は都市化を考えて補正してあるとのことだが、都市の気温はそもそもデータから外す方が、グローバル・ウォーミングが起きているかどうかを検証するには有効であろう。

p13-14

要するに、GISSの平均気温のデータは都市の気温によって大きく影響を受けているので信用できない、ということだろう。確かに補正したといっても、それがどの程度正確なのか、その点について疑問を持つことはおかしなことではない。しかし、著者は単に疑問を呈するに留まらず、都市の気温はデータから外すべきだ、という主張をしている。

都市の気温を外すべきかどうか、その判断は都市の気温の補正の正確さに依存する。もし補正が不正確なら、都市の気温を外した方が平均気温は正確さを増すだろう。一方、補正が正確なら、都市の気温を含めた方がデータの点数が多くなり、平均気温は正確さを増すだろう。つまり、都市の気温を外すかどうかを判断するためには補正の正確さを判断するための専門的な知識が必要になる、ということだ。私は著者がそこまでの知識を有しているかどうか少々疑問に思う。

また、補正は必ずしも正確ではなく、実際とはずれている可能性がある、ということは正しいが、それが必ずしも著者が危惧する(期待する?)方向にずれているとは限らない。たとえば、東京の気温について実際は2.5℃下方に補正すべきところを3℃補正していたとしたら、その分GISSの平均気温は実情よりも下がって見積もられることになる。つまり、都市の気温をデータから外すことによって、GISSの平均気温は現在の見積もりよりも上がってしまうという、著者の意図とは逆方向の事態も起こりうるわけだが、果たして著者はその結果をも受け入れるのだろうか。なんだか今度は「GISSの平均気温が下がるように都市の気温の補正をしてデータに加えるべきだ」とか言いそうで怖いんだが、それは杞憂だろうか。

また、測定地点と頻度の偏りを批判してこのように述べる。

それに測定地点はアメリカとヨーロッパに偏り、海の上にはほとんどないのだから、GISSのデータから、地球の真の平均気温を推定するのは、そもそも暴論なのである。

p14

海の上にはほとんどないのだからそれほど正確ではないのではないか、というのならその通りなのだろうが、暴論というからには代替可能な推定法がある、というのだろうか。もしあるのならそれを利用すればいいのだろうが、ない場合は最もいい方法を使うしかあるまい。筆者はその代替法として衛星による測定を引き合いに出す。しかしながら、衛星による測定には問題がある、と筆者自身が書いておきながら、地上観測のみを貶めるというのはどういう理由によるものだろうか。さらにいうなら、衛星のデータは1980年ころ以降しかなく、それ以前の代替しうるデータはないのだ。そのような状況で暴論と批判したところで現状が改善されるわけではない。

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2006年3月10日 (金)

池田清彦「環境問題のウソ」を読む:第1章(2)

第1節:地球温暖化は本当なのか

この節では、地球の全球的な気温の測定法に対して方法論的に危ういものであるとし、「それほど信用ものではなさそうなのは確かであろう」としている。

では、最初から読んでみよう。

都合のいいデータの取捨選択

最初はグローバル・ウォーミングとローカル・ウォーミングの話。

東京に住んでいると何だか年々暑くなっている気は確かにする。(中略)でもそれは、今流行りのグローバル・ウォーーミング(地球規模の温暖化)じゃなくて、ローカル・ウォーミング(局地的な温暖化)じゃなかろうか。

p8-9

と、暑くなっている実感はあるが、それは単にローカルな話なんじゃないか、という疑問を呈している。それは9割方その通り。そもそも地球温暖化しているとは言っても、たかだか100年で1度足らずの話。実感として簡単にわかる、という性質のものではない。

東京の気温を見るとここ百年ほどで三℃上昇したことがわかる。一方、静岡県の網代や伊豆諸島の三宅島では、一九四〇年頃から一九九〇年頃まで気温はほとんど変わらない。都市の気温は確かに上昇しているかもしれないが、田舎では上昇していないとなると、都市の温暖化はコンクリート・ジャングルや冷暖房などによる、いわゆるヒートアイランド現象で、地球規模の温暖化ではないのかもしれない。グリーンランド、アラスカ、昭和基地やアムンゼン・スコット基地(南極)などの気温変化のデータも、一九四〇年頃から(南極では一丸六〇年頃から、それ以前のデータはない)現在に至るまで、これらの地域の温度はほとんど上昇も下降もせずに椎移していることを示している。南半球の田舎、たとえばチリのイースター島や南ア共和国のカルビニアではむしろ気温は下がり気味だ。

p9-11

この論法はちょっとひどい。なにがひどいかというと、数多くある田舎の気温データのうち、気温が変わらないか、逆に低下しているものを著者が都合良く選択してあたかも田舎では気温が上昇していないことを印象づけている点だ。実際のデータはGISTEMPから見ることができる。確かに網代三宅島では気温の長期的な変動は見られないが、河口湖八丈島ではだいぶ気温が上昇しているように見える。そんなやり方が許されるなら、誰でも簡単に、自分の都合のいいように(実情とは異なる)結論を示すことが出来てしまうだろう。河口湖八丈島のデータを提示して、やはり田舎でも気温は上昇している、とかね。そういったごまかしを許さないために恣意的なデータ選択は許さないというのは科学の基本なんだが、著者はそのあたりは理解できないのだろうか。それとも、知っててやってる?

過去のデータからの未来予測

次は全球データを引き合いに出してこう主張する。

このグラフを信じれば、僕かに平均気温は上昇しているように見える。しかし、コンスタントに上昇しているわけではなく、一丸六〇年代から七〇年頃まで、気温は前後に比べてかなり低かったのである。だから、このまま上昇し続けると考えるよりも、むしろ再び下降に転じると考える方が合理的だ。数年間、平均株価が上昇し続けても、そのまま永遠に株価が上がり続けると考えるバカはいない。

p11-12

本当に再び下降に転じると考える方が合理的なんだろうか。過去のデータのみから未来を予測するのはそう簡単ではないように思える。周期的な変動があり、かつそれによる影響が支配的であってはじめて予測が成り立つのではないだろうか。私は「過去の気温変動のみからでは今後どのように気温が変動するかはわからない」と考える方が合理的なように思える。また、筆者の言いたいことを株価でたとえるのは不適切だろう。確かに平均株価はそのまま永遠に上がり続けることはないだろう。しかし、平均株価は上昇と下降を繰り返しながら長期的には上昇を続けている。将来も長期的には上昇を続けると考えてもそんなにおかしくはないだろうし、平均気温もこのような動きをしないとは限らない。

次は過去の気候を引き合いに出し、

地球の平均気温が下降気味の時は、このままではやがて氷阿期になるという話が流行り、上昇気味の時は、やがて南極の氷が融けて大変なことになるという話が流行る。

p12

と気象学者を揶揄する。これについてはこちらの書評が詳しい。

つづく

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2006年3月 9日 (木)

池田清彦「環境問題のウソ」を読む:第1章(1)

今回からは各章ごとに読んでいくことにする。

第1章 地球温暖化問題のウソとホント

この章では地球温暖化問題への疑問をぶつけている。以下、簡単にまとめる。

まず「地球温暖化は本当なのか」では、地球の全球的な気温の測定法に対して方法論的に危ういものであるとし、「それほど信用ものではなさそうなのは確かであろう」としている。これは旧hechikoのブログ地球温暖化理論とそれへの批判の論理的構図の1-1.「地球の平均地上気温は,20世紀に約0.6℃上昇した。」への批判に分類できる。

次の「温暖化は昔もあった」では、千年から数百万年のオーダーで過去の気温を紐解き、昔も暖かかった時期もあるので、現在温暖化が進行しているからといって、その原因が即二酸化炭素であるとは言えない、と主張している。この中には地球温暖化理論とそれへの批判の論理的構図1-2.「20世紀における気温の上昇は,過去1000年のどの世紀よりも大きかった。」への疑問が含まれている。

「人為現象それとも自然現象」では、CO2濃度と気温に相関がなく、気温の変動にはCO2以外の要因が関与していることを示している。そして気温の変動は太陽の活動によって大きく影響されるとしている。この主張は地球温暖化理論とそれへの批判の論理的構図2-2.「自然起源の因子は,過去100年間では放射強制力にあまり影響していない。」への批判に分類できる。

「温暖化で何が起こるか」では、地球温暖化が地球環境、あるいは人間社会にどのような影響を及ぼすのかを、海水面上昇、異常気象、健康被害、農業という具体例を挙げて、一般に広まっているイメージと最新の科学的な予測にギャップがあることを説明している。これらは地球温暖化理論とそれへの批判の論理的構図4.温暖化は悪影響を及ぼす(影響予測)への批判に分類される。

最後の「CO2削減政策のデメリット」では、CO2削減シナリオが実現したとしても百年後の気温上昇をたった6年遅らせるだけで、コスト高の割には割に合わないものであると主張する。この主張は地球温暖化理論とそれへの批判の論理的構図5-1.「温室効果ガス排出を抑制することで影響を緩和することができる。」への批判に分類できる。

これらを簡潔にまとめると、「温暖化しているかどうかはよくわからない。昔も暖かかった時期はあるので現在の温暖化がCO2濃度の上昇によるものかどうかは不明。実際、太陽活動によって温暖化が起こっているように見える。温暖化による悪影響は思ったほどじゃないし、CO2を今すぐ削減してもコストがかかるだけで温暖化防止にはほとんどならない。だからCO2削減なんて行うべきじゃない。」といった感じか。こうやって書いてみると実にオーソドックスな批判が並べられている感じだ。

とりあえず、今日はここまで。次回から細かく見ていくことにする。

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2006年3月 6日 (月)

池田清彦「環境問題のウソ」を読む(2)

なんでもかんでも「お上の陰謀」

この本を通して書かれているのは「環境問題はでっち上げが多く含まれていて、それには役人や役人とつるんで儲けている人たちの思惑が見え隠れしている」というものだ。

一言で言うなら、お上の陰謀、というわけだ。

実例を挙げよう。

第一章 p.50

温暖化抑制というほとんど実効性のない政策のために、日本だけで毎年一兆円も二兆円もドブに捨てられたのでは国民はかなわない。それで食ってる一部省庁の役人や環境関連の企業はうれしいかもしれないけどね。

第二章 p.84

ダイオキシン法が施行されて得をするのはまずハイテクの焼却炉を作るメーカーであり、ダイオキシンを分析する業者であり、監督官庁の役人だろう。だからこういった人たちがグルになって、ダイオキシン法を作りたいと思ったとしても不思議はない。

第三章 p.121

ブラックバスが食用魚として市場性があることになれば、わざわざ税金を使って駆除しなくとも、、タダで捕ってくれる人が現れることになる。ブラックバス駆除派の人々にとってもそれはとってもいいことだと僕は思うんだけど、実はとっても悪いことらしい。なぜって、ブラックバスを駆除して税金を使おうという利権が消えちまうものね。

第四章 p.135

環境省は環境を守るふりをする役所であって、環境を守る役所でないってことはよく覚えておこうね。

確かに著者の指摘するとおり、こういった環境問題には官庁の利権が絡むというのはおそらく一面の真実ではあるだろう。しかし、官庁がそういった利益確保を主目的として動いている、というのは根拠のない陰謀論に近い。

どうして著者は、環境問題を必要以上に問題だと主張する人たちは利権が絡むからそう騒ぎ立てているだけなのだ、という推測だけして、環境問題を必要以上に問題ないと主張する人たちは利権が絡むからそう騒ぎ立てているだけなのだ、という主張をしないのだろう?もし環境問題を利権が絡んでいるだけだとするならば、大変じゃない大変じゃないと騒ぎ立てている人たちの中には、将来を心配しているまじめな人たちもいるんだろうけれど、根が不真面目で疑り深い僕は、環境問題って実はやっかいな問題で、これで損をする人たちが大変じゃない大変じゃないと騒いでいるんじゃないかと勘ぐっているわけです、などと言ってみたりもできてしまう。

私が思うに、環境問題を論じる人は、楽観論者にしろ悲観論者にしろ行動規範は次の3タイプに分けることが出来ると思う。

1.事実を元に、社会のための主張を行うタイプ。新しい事実が判明する度に結論を修正する。

2.事実関係を重視せず、自己の利益のための主張を行うタイプ。始めに結論があり、それを変更することはない。またそのためには事実をねじ曲げることも厭わない。

3.タイプ1あるいはタイプ2の人に振り回されるタイプ

著者は少しタイプ2の人間を強調しすぎているのではないだろうか。実際は楽観論者にしろ悲観論者にしろタイプ2の人間はそれほど多くはないと感じている。

ちなみに著者自身は、少なくとも専門外の地球温暖化、ダイオキシン問題についてはタイプ3に近いだろう。後半の生態系の問題辺りだと、タイプ1と2が半々程度か。ネタ本の著者である渡辺正や伊藤公紀なんかはタイプ1に近い。私自身はタイプ1でありたいと思っている。

つづく

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2006年2月27日 (月)

池田清彦「環境問題のウソ」を読む(1)

今回は本のレビュー。読んだ本はこちら。

環境問題のウソ

ちくまプリマー新書 池田 清彦 (著)

読後の印象を一言で表すと「ネタ本の劣化コピー」だった。

著者自身があとがきで書いているように、この本の前半は著者の専門分野ではなく、そのネタの多くはネタ本からのコピーだ。それだけならいいのだが、所々に著者自身の問題のあるオリジナルな主張を織り交ぜてくる。例えば、「820年分のダイオキシンを摂取しなければ、半致死量には届かないということだ。普通の生活をしている限り、ダイオキシンで死ぬことはあり得ない。」など。もちろんこれは明らかに間違っている。
大した問題ではないのに「問題だ問題だ」と騒ぎ立てるのは問題だが、逆もまた然り。多少なりとも問題があるのに「なんの問題もない」と騒ぎ立てるのもやはり問題なのだ。
この本の内容全てが間違っているわけではないが、懐疑論に興味がある方はむしろネタ本の方を読むことをお勧めする。

つづく

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