2006年8月 8日 (火)

「温暖化懐疑論者」による当ブログの評価

いつものように"hechiko"でググっていると、いわゆる「温暖化懐疑論者」(この括りでいいのかどうか疑問ではあるが)のサイトがヒット。

で、当サイトについて何か書いてあるのか見てみると・・・

これらのサイトでの共通の認識を一つ挙げるとするならば、
気候再現実験が『人為起源の温室効果ガスが急激な温暖化をもたらすという説』の根拠になると、たぶん本気で思っていることです。

うーん、気候再現実験が『人為起源の温室効果ガスが急激な温暖化をもたらすという説』の根拠になるとは書いた覚えがないけどなあ。「気候再現実験によれば人為起源の温室効果ガスが急激な温暖化をもたらすと予測されている」くらいは書いたような気がするが。

詳しい中身については・・・まだ読んでません。たぶん、読みます。そのうちに。

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2006年7月12日 (水)

中村 政雄「原子力と環境」を読む

中西準子のホームページの雑感349-2006.6.13「原子力発電と温暖化」で前回まで話題にしていた槌田敦「CO2温暖化説は間違っている」と並んで取り上げられていたので読んでみることに。

アマゾンのブックレビューを見てみると、

あわせて買いたい
原子力と環境』と『CO2温暖化説は間違っている』、どちらもおすすめ!

となっていた。これって中西効果?

それはともかく、内容はというと、

第1章 ある環境活動家の変貌

第2章 石油文明の終わりと地球温暖化

第3章 資源小国・日本のおかれた立場

第4章 過密社会化する世界のゆくえ

の4章立てとなっている。

著者の言いたいことを簡単にまとめると、「エネルギー的にも環境的にも日本は原子力抜きではたち行かなくなるだろう。」というもの。その論調は、率直に言わせてもらえば、翼賛的で偏向しており、信用するに足りない。原子力のメリットはこれでもかとばかりに強調する一方、デメリットであるはずの安全性の問題については

 実験の失敗ばかりが大きく報道された。成功は小さく一度きりしか報道されない。これでは正しいイメージが世間に伝わらないはずだ。

p112

などと、原子力関連の報道に偏りがあるということだけを主張するにとどまり、実際の安全性はどうなっているのかについての言及はほとんどなされていない。また環境問題についても

 地球温暖化による気温上昇は、今後100年間に平均で2度前後と予想されている。温暖化は100年で終わるわけではない。南極と北極の気温は平均値の4倍くらい上がるから、200年後に平均で4度上昇すれば10数度の気温上昇となって、南極の氷は一部溶け出すだろう。全部溶ければ海面は60メートルくらい上昇するそうだから、いずれ東京もニューヨークも海に沈んでしまう。

p81-82

などと危機をあおるような書き方をしている。100年後に平均2度、極地で4倍ってのが正しいとして、200年後に4度って正しいの?単純にそれも極地で4倍していいの?よしんば南極の氷が溶け出すのがただしいとして、全部溶けるなどというありえない仮定で東京もニューヨークも海に沈むなどという予測を行うってのは「環境の危機ばかりが大きく報道された」ことにはならないの?

私は原子力政策について詳しくもないし、賛成でも反対でもないけれど、このように自分に都合のいい部分を強調し、都合の悪い部分は無視するような偏向した姿勢をとる論者の意見は信用するに足りないと考える。

また、一冊の本としての完成度もあまり高くない。

「原子力と環境」というタイトルではあるものの、原子力と環境の関連性について論じるのではなく、原子力問題と環境問題(その他エネルギー問題等)それぞれについて書かれるのみで、話題が拡散している。しかもその論じ方が「日本特有の多神教が世界強調に貢献する」などといった苦笑ものの持論か、使い古されたお話ばかりでまったくと言っていいほどためにならない。第4章など「過密社会が育てた日本の知恵と文化」など日本礼賛で、ほとんど関係ないように思える文章がズラリと並ぶ。まあ記者としてこれまで経験したエピソードくらいか、役に立ちそうなのは。

もっとも、ところどころ織り込まれるトンデモエピソードはウォッチャーを楽しませてくれるだろう。以下、その一部を紹介する。

ムーア博士は原子力推進に転向したが、グリーンピースそのものの反原発の姿勢は変わらないという。「なぜなら、彼らの主張は宗教のようなものだ。捕鯨反対もそうだ」と語った。それは原理主義の一神教の世界の産物だ。世界は多神教が共存、強調する時代に移りつつある。身勝手な一神教の論理を振り回すのは時代遅れだ。

p23

一神教=原理主義かよ。そりゃ原理主義は身勝手で迷惑だけど、一神教が全てそういう性格を持っているわけではないだろ。

 日本の技術援助で外国の火力発電の効率が上がったら、それも日本がCO2を減らしたことに勘定する共同実施やクリーン開発メカニズムもまやかしである。たとえば中国が日本の技術で火力発電所を増やすと、どんなに熱効率のいいものであっても、中国のCO2排出量は増えるのに、日本は旧式の中国の火力発電との排出量の差を減らしたと勘定するのがこの制度だからである。

p40

火力発電所の建設前と後でCO2排出量を比較してどうする。クリーン開発メカニズム有り無しでの比較だろ。

 もっとも好ましい解決方法は、人口が減ることだと思う。

(中略)

 天の配慮によるのだろうか、日本では将来の人口減少が予想されている。すでに2005年から、死んだ人の数が生まれた赤ちゃんの数を上回る、自然減の時代に入った。

 政府も国民もこの傾向に賛成かと思ったら大反対のようだ。少子化が続けば国力は低下する。(中略)人口の減少を気遣う気持ちは理解できる。

 では人口は増えるのがいいか。増え過ぎて、食えない人が大勢発生すると戦争の原因になる。それでいいのか。

p45

この人の頭の中には増えるか減るかの2つしかないのだろうか。なぜ人口増でも超少子化でもない「ゆるやかな少子化」という選択肢が浮かばないのだろうか。

近年、省エネルギーと資源循環型の社会として、江戸時代を礼賛する風潮も生まれた。資源の乏しい日本でも、江戸の時代の暮らしの精神を生かせばなんとかなると思う人が増えた。しかし、この考え方はかなり間違っている。

 日本は資源の乏しい国ではなかった。資源がなくて、国の経済が立ち行くわけがない。佐渡をはじめ日本の各地に金鉱山があった。(後略)

p48

そりゃ資源の意味が違うだろ。資源循環型の資源は物質、原材料としての資源。金鉱山なんかの資源は資産としての資源。

 平均寿命が50年のときには、嫁姑の関係は10年間だった。20歳で嫁に行ったとして、その時姑の平均年齢が40歳。10年すれば姑は平均寿命に達したからである。平均寿命が30年延びた結果、嫁姑の関係も30年延びた。

 昔の嫁姑の関係は、嫁が若いときの10年間だったから我慢ができたという面もある。40年間も同じ家に嫁と姑が同居していたら、昔には考えられなかったようなトラブルも生じる。

p74-75

平均寿命と平均余命の区別もつかないようだ。40歳の人間があと何年生きるかの計算には平均寿命ではなく平均余命を用いなければいけない。でないと、50歳の人間はすぐに死んでしまう計算になってしまう。統計によると、平均寿命が50年のとき(昭和10年)、40歳の平均余命は30年。20歳で嫁に行ったとして、嫁姑の関係は30年。平均寿命が80年のとき(昭和60年)、初婚年齢も遅れているから25歳で嫁に行ったとして、50歳の平均余命=嫁姑の関係は約32年。ほとんど変わっていない。だいたいこの人平均寿命が50年の時代に生きていたはず(1933年生まれ)なのに、どうして40歳の人があと10年しか生きないなんて思っちゃったんだろう?

しかしまあ、よくこんな文章を書く人が前作の『原子力と報道』でエネルギーフォーラム賞特別賞を受賞できるもんだ。

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2006年7月 4日 (火)

槌田敦「CO2温暖化説は間違っている」を読む(4)

ニセ科学としての槌田温暖化人為説否定論

理論に対する具体的な批評は前回で終わりにして、今回はニセ科学批判という見地から槌田論を論じる。

「科学ではないのに科学を標榜しているもの」には疑似科学、ニセ科学、トンデモなどいろいろな呼び方があるのだが、今回は菊池誠氏の使用法に従ってニセ科学を用いることにする。

まずは、ニセ科学(疑似科学)がいったいどのように定義されているのかをみてみよう。

Wikipediaの疑似科学の項では、

疑似科学(ぎじかがく)は英語Pseudoscienceの訳語である。学問学説理論知識、研究等のうち、その主唱者や研究者が科学であると主張したり科学であるように見せかけたりしていながら、科学の要件として広く認められている条件(科学的方法)を十分に満たしていないものを言う(例えば、科学的方法をとっていないため科学雑誌への論文投稿が認められない、そのため査読も経ていないものなど)。これらが、科学であるかのように社会に誤解されるならば、そのことが問題であると言われる。

とされている。また、松田卓也氏によると、

私は現代の正統科学とは、科学的な方法論、科学的な作法、マナーに則って行われるものであると定義します。どういうことでしょうか。それはひとつには発表の方法にあると思います。

 科学者は研究して、一定の成果を得られるとそれを論文に書きます。そして「レフェリー」のある、いわゆる「権威ある学術雑誌」に投稿します。レフェリーは普通は、その分野の権威者や、その問題をよく知っている人から、雑誌の編集者によって選ばれます。匿名のレフェリーは、その論文が、間違っていないか、新しい知見があるか、発表する価値があるか、といった観点から評価します。そして、その論文が、そのまま発表できる、小修正すれば発表できる、発表するためには大きな修正を必要とする、他の雑誌に投稿すべき、発表の価値がない、などの結論を下します。レフェリーの数は一名ないし二名です。二名の場合、両者の意見が一致すればよいのですが、そうでない場合、編集者の要請で第三のレフェリーが任命されることもあります。
 このようなレフェリーの意見は論文の著者に返送されます。そのまま出版とか、小修正の場合は大した問題はないのですが、大修正とか出版の価値なしと認められた場合は、著者とレフェリーの論争になります。編集者が適切な判断を下す場合と、決定に全然タッチしない場合があります。著者はレフェリーの意見に納得できないときは、レフェリーの交代を要求したり、あるいは論文を取り下げて他の雑誌に投稿することもできます。

(中略)

 このようなレフェリー制度をピアーレビューといいます。同僚評価と訳されています。現代科学の方法論、マナーとは、まさにこの同僚評価制度にあるのです。同僚評価制度を通らないで、科学的主張をすると、科学者の間で正統な認知を得られません。疑似科学はこのシステムに乗っていないのです。

となる。どちらにしろ、科学の要件が成り立つための方法論を満たしているかどうか、特に査読(ピアレビュー)制度を経ているかどうかが正統な科学とニセ科学とを分ける判断材料となるであろう。

ではなぜピアレビュー制度が重要なのだろう?それは、第三者が評価し、検証することによって論理的な間違い、データの不備などの誤りが排除されるからだ。一方、一般書はというと、そのようなチェックを受けることはない。専門に詳しくない一般書の想定読者が誤りを見つけるのは難しい。その結果、誤りを含んだ説が世間に広まることになる。

そういった観点から槌田温暖化人為説否定論を評価してみよう。いわゆる槌田説は一般書や学会、Web上での発表はあるものの、これまで一度も査読付きの論文として掲載されたことはない。槌田はこれに対して

CO2温暖化説に批判的な論文は定評ある学術誌には掲載されない

p136

としているが、実際はそうではなく、これまで見てきたような根本的な誤りがあるから掲載されないだけだ。ただ残念なことに中西準子はこれを真に受けちゃったようで、自身のホームページでこれを「学会誌の問題点」としてしまっている。

確かに、既存のパラダイムに合致しない説は論文として掲載されにくいという傾向はある。これは前述の松田氏も指摘している。

 科学者はさまざまなパラダイムのもとで研究をしています。ですから投稿された論文がパラダイム、定説に反する場合には、拒否反応が起きてリジェクトされやすくなります。実際、ノーベル賞を取ったような画期的な論文が拒否された例はいくらでもあります。

しかし、話はそれで終わらない。

 これらの例は定説に反する説ですが、唱えた人たちは、きちんとした科学的訓練を受けた立派な科学者で、しかもその説は、レフェリーのある論文に掲載されて、世界中の科学者の検証を受けています。上記の例は現在でも多くの支持を集めていないので、多分間違いでしょう。しかし私が強調したいことは、これらは異端の科学とよぶべきで、疑似科学ではありません。

つまり、定説に反するけれども科学の作法はしっかり踏まえた異端の科学と、定説に反するだけでなく科学の作法すら守られないニセ科学が存在するということだ。

では、これらを区別する基準というのは存在するのだろうか。おそらくこの2つの境界にはグレーゾーンが存在し、それらをはっきりと分けるのは困難だろう。しかし、典型的な異端の科学とニセ科学を見分けることは不可能ではないはずだ。それを見分けるための傾向としては、例えば以下のようなものが挙げられる。

1.自分を天才だと考えている。

2.仲間たちを例外なく無知な大馬鹿者と考えている。

3.自分は不当にも迫害され差別されていると考えている。

4.もっとも偉大な科学者や、もっとも確立されている理論に攻撃の的を絞りたいという強迫観念がある。

5.複雑な専門用語を使って書く傾向がよく見られ、多くの場合、自分が勝手に創った用語や表現を駆使している。

マーティン・ガードナー「奇妙な論理」より

その他には、既存の説を熟知しているかどうか、またピアレビュー制度などの現在の科学の作法について理解を示しているかどうか、陰謀論を用いているかどうか、あたりだろうか。当然のことだが、既存の説を熟知しなければそれに対抗しうる新説を提出することはできない。既存の説を熟知せずに反論するのは「地球が丸いという説は間違っている。なぜなら、地球が丸いとするならば、地球の裏側にいる人は下に落っこちてしまうはずだからだ」のような主張を行うのに等しい。また、異端の科学の提唱者はピアレビュー制度に悩まされながらもそれを否定することなしに、その制度に則って根気強く挑戦し、最終的には成功している。ニセ科学者は自説が受け入れられない原因を自説の不備には求めず、自説を否定する他人に求めるので、ピアレビュー制度に拒否反応を示し、また自説を否定する動機として陰謀論を持ち出してくる。

では、これらニセ科学(者)によくある傾向に槌田氏および槌田説がどの程度合致するか5段階で評価してみよう。

  • 自分を天才だと考えている。

天才だとは言っていないが、文章の端々にそのようなニュアンスは見られる。4か。

  • 仲間たちを例外なく無知な大馬鹿者と考えている。

仲間たちってのは自分以外の研究者ってことか。間違いなく5。

  • 自分は不当にも迫害され差別されていると考えている。

「全体主義がはびこり、主流に反対を唱えると強烈な反対に遭う。ファシズムだ」と言っている。5。

  • もっとも偉大な科学者や、もっとも確立されている理論に攻撃の的を絞りたいという強迫観念がある。

槌田はCO2温暖化説だけでなく、オゾンホールフロン原因説やゴミのリサイクルなど確立された理論を攻撃している。5。

  • 複雑な専門用語を使って書く傾向がよく見られ、多くの場合、自分が勝手に創った用語や表現を駆使している。

「空冷と水冷の地球エンジン」などというオリジナル用語を使う。ただし頻度は多くないし、まるでデタラメという訳でもないので3。

  • 既存の説を熟知していない

これまで見てきたように全く熟知していない。5。

  • ピアレビュー制度などの現在の科学の作法について理解を示していない

「学問を殺す閲読制度」などと評している。5。

  • 陰謀論を用いている

「温暖化説の仕掛け人は原発業界」と、温暖化で得をするという理由のみから原発業界の陰謀であると根拠のない主張を行っている。5。

以上のように、多くの点で槌田氏の言動はニセ科学者の言動と同じような傾向を示すことが分かる。超能力のように反証不可能性の性質を持つような説ではないが(それゆえすでに反証されまくっている)、かえってそれが正統な科学っぽさを醸し出しているのかもしれない。

結論としては、槌田氏あるいは槌田論はほぼ間違いなくニセ科学(者)に分類して差し支えない。槌田氏本人は自分が異端の科学者であることを自称し、異端が迫害されていると訴え、異端を擁護するよう主張している。科学者の中にはそれに同調する向きもある。でも、槌田論はこれまで見てきたように明らかにニセ科学であり、異端の科学ではない。異端の科学とニセ科学ははっきりと区別すべきだ。

確かに現在の科学のシステムは完璧じゃないし、それを担っている科学者の中には異端を排除するような動きをとる人もいるだろう。そういった点はできるだけ改善すべきだろう。でも、たとえそういった欠点があったとしても、現在の科学のシステムを否定するのは得策ではない。完璧ではなくても、現状で我々がとりうる方法としては最善の手法なのだ。そのシステムがあるからこそ、素人では判別できない科学的仮説の確からしさの順位付けを行うことによって、明らかに間違っている説をふるい落とすことができるのだ。間違って正しい説もふるい落とされることはあるけれど、その割合はそんなに高いものじゃない。高そうに見えるのは、ふるい落とされた説の論者が自分の間違いに気付かずにそう吹聴しているからだ。また仮に間違ってふるい落とされたとしても、ちゃんとした証拠を集めてちゃんとした発表をしていればいつかどこかで誰かが拾ってくれる。現在の科学のシステムを否定することによってニセ科学がはびこることはあっても、異端の科学が報われるってことはほとんどないだろう。

他にも書きたいことはあると言えばあるが、あまり冗長になっても仕方がないので、ひとまずこのくらいで槌田敦「CO2温暖化説は間違っている」を読むシリーズを終わりにしようと思う。必要に応じて小ネタを取り上げるかもしれませんが。

この本が出た当初は正直ここまで関わる価値すらないと無視していたが、環境界の大御所が好意的に取り上げるの見て、社会への影響が無視できなくなるだろうと予測し、一連のレビューを書き上げた。参考になれば幸いだ。

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2006年7月 3日 (月)

槌田敦「CO2温暖化説は間違っている」を読む(3)

槌田説では説明できないCO2のゆくえ

大気中のCO2濃度は海水からの放出で決まる、と主張する槌田説だが、それでは説明できないのが人間活動由来のCO2がいったいどこへ行ってしまったのか、ということだ。

従来の説では人間活動由来のCO2の放出は71億トン、陸域での吸収が19億トン、海水での吸収が19億トン、38億トンが大気中に蓄積するとされている(IPCC第三次報告書)。

これについて槌田は

 気象学者キーリングが最初に大気中のCO2濃度を論じたときから、化石燃料の燃焼で生じたCO2のうち半分が行方不明とされ、その問題について合理的に説明できないままである。

p53-54

と評し、ミッシングシンクの問題をとりあげているが、その問題はすでに解決されているのを知らないようだ。

また、

 これらの数値は発表ごとに変わっていて、CO2の収支はまだよく分かっていない。

p54

とも書いているが、実際の排出量や吸収量が変化するのだから、数値が発表ごとに変わるのはある意味当然の話だ。測定誤差はあるものの、おおまかなCO2の収支はだいたいわかっていると考えた方がよい。

一方槌田説ではどうなるかというと、大気中のCO2濃度は海水からの放出で決まるということだから、大気中に増加している33億トンのCO2は海水由来ということになる。となると、問題となるのは人間活動由来のCO271億トンのゆくえだ。仮に海水に吸収されたとすると、ネットでは海水は吸収することになるので槌田説とは相容れない。残るは陸域での吸収だが、仮に陸域で光合成によって71億トンが吸収されたとすると、その吸収量はIPCCの推定とはだいぶかけ離れている。またCO2が吸収された分のO2が大気中に排出されたことになる。一方、化石燃料や森林伐採等によるCO2の排出も同じく71億トンで、その分のO2が大気から失われた計算になる。光合成によるO2の排出と燃焼によるO2の消費を差し引くとゼロ、つまり大気中のO2濃度は変化しない計算になる。これは観測事実と合わない。そもそも、槌田氏は『「森林などによる吸収の増加」は、森林伐採や焼き畑などの現状に反している(2005,日本物理学会誌投稿原稿)』と陸域での吸収について懐疑的だ。

結局のところ、人間活動由来のCO2がいったいどこへ行ってしまったのか、槌田説では全く説明できない。実際、説明されている文章は見たことがないし、どうも説明を試みるつもりもないように見受けられる。

槌田説を支持する人は是非とも人間活動由来のCO2のゆくえについて説明をして欲しい。

他にもたくさんツッコミどころはあるのだが、こちらで反論がなされているので、科学的な検証はひとまずここまでとしたい。

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2006年6月29日 (木)

槌田敦「CO2温暖化説は間違っている」を読む(2)

前回は槌田氏の新ネタを読んだので、今回は本丸に入ることにする。

本丸とは2章のタイトルにあるように『気温上昇が「原因」、CO2増加は「結果」』という主張のことだ。この主張の歴史は古く、環境経済・政策学会 和文年報 第4集京都大学原子炉実験所での講演記録・1998.12.22の頃からその主張は変わっていない。この本を持っていない方でも同様の主張がWeb上で読めるので、詳しく知りたい方はそちらを参照のこと。

正直言ってツッコミどころが多すぎて全てに言及すると疲れるので、できるだけポイントを絞って解説することにする。

槌田の主張はこうだ。

 この章では、大気中のCO2濃度は、人間活動とは関係がなく、気温の上昇による結果であったことを説明する。

 すなわち、大気中のCO2濃度の増加が原因で温暖化が進行したのではなく、気温(海面温度)の上昇で海水中のCO2が大気に放出され、大気中のCO2濃度が増えたのである。

p32

この主張の根拠となって、槌田論でもっともよく引用されるのがKeelingによるこのグラフだ。

23_1

キーリングもびっくりのCO2温暖化否定論

この図を引用し、槌田はこのように書いている。

彼らは、気温およびCO2濃度のどちらも長期的な視点で見れば上昇しているという点と、季節変化をはずして短期(1年)的な変化について【図表2-3】のようにまとめたのである。

 この図表によれば、CO2濃度の変化は、気温の変化を後追いして、半年~1年後に増減している(キーリング 1989年)。つまり原因は気温であり、CO2濃度は結果である。

p38

なるほど、確かにCO2濃度と気温には相関があるようにも見える。しかし、このグラフにおけるCO2濃度は単なる観測されたCO2濃度ではないことに注意してもらいたい。縦軸の真ん中が0になっているのがわかるはずだ。ではこのCO2濃度がどのようにして導かれたのかを見ることにしよう。

この図は槌田敦「CO2温暖化説は間違っている」を読む(1)図表1-3 で示した実際に観測で得られたCO2濃度から化石燃料の消費量から見積もった推測値を引いたものだ。グラフで見せると下のようになる(下のグラフはKeelingら、1995より作成)。

3

つまり、図表2-3のCO2濃度は単純な実測値ではなく、化石燃料由来のCO2を除いたときの変動をあらわしていることになる。一方の気温は実測値なので、このグラフが示すのはCO2濃度のわずかな揺らぎと気温との関係ということになる。このあたりの説明についてはこちらの記述も参照のこと。槌田氏もこの記述に言及している。

 しかし、多くの気象学者はこの都合の悪い事実を無視しつづけた。しかし、上記根本著『超異常気象』(1994年)を読んだ人々から疑問が増えてきて、キーリングの発表後15年もたって、ようやく二本気象学会天気編集委員会は統一見解を発表することになった(河宮 2005年)。

p39-40

このあたりの記述はアポロ月着陸捏造説(もちろんトンデモ説)に対応したNASAやNASDA(現JAXA)の説明に対する反発と相通ずるものがあって楽しい。

さて、槌田はキーリングがこのグラフから何を読み取ったかについてこのように書いている。

 気象学者キーリングは、1章で紹介したように南極とハワイでCO2濃度の精密測定をして、CO2温暖化説に根拠を与えた人である。そのキーリングが、CO2温暖化説をひっくり返す事実を発表したのである。

 彼は、気温変動が地球表層のCO2放出源や吸収源に影響を与えた結果この微妙な不規則変動が現れたとしているが、それ以上の論評をしていない。つまり、気温が原因でCO2濃度は結果であることを認めたのである。

p38

気温が原因でCO2濃度は結果であることを認めた、というのは論理的には間違っているとは言えないだろう。ただし、気温が原因でCO2濃度は結果であることから、CO2濃度が原因で気温は結果であることを導くことはできない。地球温暖化FAQ:二酸化炭素と温暖化は因果関係が逆?でも説明しているように、因果関係はどちらか一方しか成立しないという性質のものではなく、両立しうるのだ。だから、これをもって「CO2温暖化説をひっくり返す事実」と説明するのは間違っている。

では実際にこのグラフから何が読み取れるかをグラフ(図4)で見てみよう。

4

槌田図表2-3はCO2の人為的排出分、グラフでいうと青い部分を除いた部分の変動を見ている。つまり、グラフの赤い部分の変動を見ていることになる。CO2濃度変動のうち、この赤い部分の変動が温度の変動によって説明できるというのがキーリングの趣旨であって、決してCO2濃度変動全てが温度の変動によって説明できると言っているわけではない。キーリングの説はCO2濃度変動が主に人間活動由来であることを補強するものであって、否定するものではないのだ。槌田はその点について全く理解していないと言っていい。

既に書いたように、キーリングの説はCO2温暖化説にとって都合が悪くもなんともない(むしろ都合がいい)し、キーリングの説を無視なんかしていない。

この構図は、進化論を理解していない人が、分子進化の中立説を根拠にダーウィン進化論を否定するときとよく似ている。もちろん分子進化の中立説はダーウィン進化論を補強するものではあっても、否定するものでは全くない。既存の説とちゃんと整合性がとれているにもかかわらず新しく提唱された説を否定論の根拠としてしまうってことは、そのような主張をおこなう者は既存の説も新しく提唱された説も両方とも理解していないということを意味する。既存の説を理解していない人がなにやら変な主張をするのがトンデモさんの特徴なのだが、このような人が主張する説が主流となり、認められた例はない。おそらくこれからもないであろう。

参考文献

Keeling, et al., Nature 375(1995)666-670

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2006年6月20日 (火)

槌田敦「CO2温暖化説は間違っている」を読む(1)

昨日読了した槌田敦「CO2温暖化説は間違っている」のレビューを行う。

さて、まずは著者のプロフィールから見てみよう。

学歴、職歴はどうでもいいので略。中西準子氏によれば「(かつて)所謂市民派研究者の代表的な人で、エントロピー学会の創設者の一人」だそうだ。真に市民派かどうかは不明だが、エントロピー学会については本の中に以下の記述があった。

 エントロピー学会という学会がある。私はこの学会の発起人のひとりであるが、その学会の編集する論文集に投稿した私の論文について、このCO2温暖化とフロンに関する部分の削除が要請された。このような自由に意見のいえないような学会の設立を提案した覚えはないので、原稿を取り下げ、即刻脱会した。

p137

だそうで、既にエントロピー学会とは縁を切っているようだ。しかし、論文の一部に対する削除要請や論文そのものの却下なんて普通にある話のはずなんだが、その原因を自分の論文の拙さに求めるのではなく、学会の体質にしてしまうあたりがトンデモさんの面目躍如と言ったところか。

槌田敦氏の主張を簡単にまとめると、「地球は温暖化しているが、その原因はCO2ではない。原因は他にあり、CO2は温暖化の結果として増えているに過ぎない」ということになる。それは地球温暖化理論とそれへの批判の論理的構図の2-1-4.「二酸化炭素等のガスの増加分の多くは人間活動によるものである。」への批判を主とする。他にもあるが、槌田論のキモは(トンデモ的にはともかく、科学的には)この部分にあると言っていいだろう。最初から槌田論のおかしなところを逐一挙げていくときりがないので、この部分を中心に読んでいくことにする。

槌田敦が認める気温とCO2濃度変動

12
まず冒頭で槌田敦は

人々は、世界各地で昔に比べてだんだん暖かくなっていると感じている。この地球の温暖化は、例外がないわけではないが、多数の測定結果からして「事実」と考えてよいと思う。

p12

と、最近の温暖化傾向そのものを認めている。また同様に、図表1-2で最近の気温測定値を出して「各地で気温上昇の傾向があることについては認めてもよいであろう」としている。

また、図表1-1でキーリングがハワイで測定したCO2の濃度のグラフを出し、CO2濃度が上昇していることも認めている。

11
つまり、大気中のCO2濃度と気温の変動に関しては認めているということになる。

化石燃料の消費量に噛みつく槌田敦

珍説はここから始まる。図表1-3は化石燃料の消費と観測された大気中のCO2濃度を示したものだ。図中の点で描かれたものがマウナロアで観測された大気中のCO2濃度(季節変動を除いたものであろう)で、滑らかな線で描かれたものが化石燃料の燃焼とセメントの製造によるCO2排出量の58%が大気中にとどまった場合の積算量である。p25の図の説明には「この図表では不連続な点で書かれているのが平均気温であって」と書かれているが、大気中のCO2濃度のまちがいであろう。本文中では正しく説明されている。

13
この図では化石燃料によるCO2積算量が滑らかに増加しているのが見て取れるが、これを「とんでもない間違い」として激しく批判する。この批判がまたいい味を出している。

 ところで、【図表1-3には、とんでもない間違いが存在する。それは化石燃料とセメント産業から放出される(以後化石燃料由来と呼ぶ)CO2濃度が滑らかに増加する曲線で示されていることである。しかし、経済活動には浮き沈みがあり、そのような滑らかで単調に増加する曲線で変化をするはずがない(槌田 2005年)。経済学者・宇沢弘文は気象学者キーリングにだまされたのである。

p26

なんともすごい批判だ。キーリングがデータをねつ造したと言わんばかりだ。でも、多少の浮き沈みがあってもそんなに曲線に変化があるとは思えないけど?

続けて槌田は経済活動に浮き沈みがあることをIPCCのデータで示す。

14_2

化石燃料の燃焼とセメント産業から放出されるCO2は、1980年まではほぼ単調に増加したが、1980年以後この放出は鈍化し、部分的には減少さえしているのである。

p26

いやだからCO2の放出が鈍化しようが多少減少しようがCO2濃度が滑らかで単調に増加する曲線に変わりがあるとは思えませんが?

そもそも図表1-3で示されている滑らかな線は化石燃料由来のCO2の積算量だから、化石燃料由来の排出が存在する限り上昇することになる。図1を見てもらえばわかると思うが、年間排出量が前年と変わらなくても積算排出量=CO2濃度はどんどん増えていくのだ。

Co2_1
まだ納得しない方のために、実際に図表1-4で示されている化石燃料由来のCO2の年間排出量のデータをもとに積算排出量をプロットしたグラフ(図2)をお見せする。槌田に言わせればこの曲線は「滑らかで単調に増加する曲線」のはずがないということになる。誰か同意する人っている?また、キーリングのグラフ(図表1-3)と比較してもらいたい。私には違いが全くわからなかった。これも槌田先生の心眼にかかればキーリングのグラフはとんでもなく間違っているように見えるんだろうなあ。

もうおわかりだと思うが、槌田敦はCO2の年間排出量と積算排出量から見積もられるCO2濃度という比較してはいけないものを比較しちゃっているのだ。

2_1
その後も批判はとどまることを知らない。なんと比較してはいけない両者を共に微分してまた比較しているのだ。

 一方、大気中のCO2濃度は、45年間にわたって、その濃度の増大だけでなく、その毎年の増加量も増大しつづけている。【図表1-5】に示すように、年平均増分は、1960年では0.8ppm/年程度であったが、1980年では1.3ppm/年程度、1990年では1.55ppm/年程度、2000年では1.8ppm/年程度とその増加はますます激しくなっている。

 このように大気中のCO2濃度だけでなく、その増分も波打ちながらではあるが、増大をつづけている。これに対して、【図表1-4】に示される化石燃料の毎年の使用量は、1960年から1980年までの20年間には24億トンから52億トンへと28億トン、年あたり1.4億トン増加している。しかし、1980年から1990年までの10年間には52億トンから59億トンと7億トンで、年あたり0.7億トンしか増加していない。1990年から2000年まではさらに減っている。

 つまり、大気中のCO2濃度は人間の排出するCO2とは関係がないのである。

p27-28

15
おいおい、大気中のCO2濃度の増分と化石燃料の年間排出量の増分を比較してどうすんの?当然のことだが、比較してはいけない両者を共に微分して比較しても合うわけはない。比較すべきなのは、大気中のCO2濃度の増分と化石燃料の年間排出量(の増分ではなく)だ。つまり、図表1-4と1-5の比較をすればいいことになる。大まかに見れば両方とも右肩上がりで、傾向としては一致している。1980年以降のCO2の年間排出量の伸びが鈍っている部分が反映されていないという反論があるかもしれないが、これだけ波打っているグラフではそこまで反映されることは期待できないし、そもそも大気中のCO2濃度は化石燃料の排出量だけで決まるわけではない。このあたりはまた後日説明することにする。

しかしまあ、こういった証拠で

 最近になって、一部のマスコミなどで疑問をはさむ論調も見受けられるが、あくまで「疑問調」である。断定を怖がってのおよび腰では、いつまでたっても気象学者や経済学者は真実を語らないだろう。

p30

とか

 あらためて断るまでもないが、私はCO2温暖化説に対して、「懐疑派」ではない。あくまで「否定派」である。

p138

とか言い切ってしまえるのはなんともはや、あっぱれと言うべきか。槌田敦イズム全開だ。

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2006年6月19日 (月)

槌田敦「CO2温暖化説は間違っている」ほぼ読了

トンデモの片棒を担いじゃった中西準子で俎上に上った「CO2温暖化説は間違っている(槌田敦著、ほたる出版)」をほぼ読了。いやあ、いつものやつであろう、などと書いていたが、なかなかどうして、以前よりもトンデモ度がパワーアップしておりなかなか笑える。まあ、キモの部分の「大気中二酸化炭素濃度の増大は、気温の上昇の結果であり、原因ではない」という部分は変わり映えしなかったが。

そのうちレビューするつもりだが、これ、誰かトンデモ本としてと学会で紹介しないかなあ。トンデモ本大賞とかは無理にしても、社会への影響力を考えると取り上げるだけの価値はあるような気がする。

しかし、中西準子ともあろうお方がどうしてまた「なかなか説得力がある」なんて思っちゃったんだろう?そんなに見破るのが難しかったのかなあ?

それはそうと、ほたる出版の書籍案内が本に挟んであったが、その中で「気とエントロピー―医者と患者に役立つ東洋医学    エコロジー対論シリーズ」帯津 良一 VS槌田 敦 (著)という本が紹介されていた。その紹介文はというと…

驚きと興奮。こんな考えは聞いたことがない!

東洋医学は、ずばりエントロピーの医学です。健康も、病気も、自然治癒力もエントロピーをベースに考えれば、明快に見えてきます。人間が昨日と同じ「今日」を生き続けられるのは、地球エンジン、人間エンジンに共通したシステムがあるからです。その仕組みと性能アップの方策「気」について解き明かします。驚きと興奮のタイ論をどうぞ。

なんというか、実に香ばしい香りが。しかしまあ、ここまで出来上がっちゃってるとは思わなかったなあ。買うべきか、買わざるべきか、悩ましいところだ。

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2006年6月15日 (木)

トンデモの片棒を担いじゃった中西準子

環境問題に関心がある人で中西準子の名を知らない人はそうはいないだろう。リスク論の専門家であり、環境リスク学―不安の海の羅針盤などの著作などでも知られる。その中西準子がトンデモにコロッと騙されちゃったという話。

問題の文章はこちら。

雑感349-2006.6.13「原子力発電と温暖化」

前半は「原子力と環境」(中村政雄著、中公新書クラレ)の書評となっている。こちらについてはまだ未読だし、評するほどの知識もないので飛ばしておこう。

次からが問題の部分。

「CO2温暖化説は間違っている」(槌田敦著)

この本は、槌田敦さんがほたる出版から出しているのだが、「原子力と環境」を読んだ方には、逆の見方を知るという意味で、この本も読むことを勧めたい。槌田さんは、(かつて)所謂市民派研究者の代表的な人で、エントロピー学会の創設者の一人である。彼は、この本の中で徹底的にCO2による地球温暖化説を否定する。大気中二酸化炭素濃度の増大は、気温の上昇の結果であり、原因ではないと主張する。それは、なかなか説得力がある。

槌田敦かよ。件の本は取り寄せ中で未読だが、今年2月に開催された温暖化の原因と対策についての賛否討論会レジュメアマゾンのレビューを読む限り、いつものやつであろうと推察される(読んだらまたフォローします、本当は買いたくなどなかったのだが)。ひとことで言うと槌田説のキモであるCO2自然起源説はトンデモあるいは疑似科学であり、科学ではない。具体的にどのあたりがトンデモかはここでは触れない。知りたい人は私の記事温暖化いろいろ「温暖化懐疑派・否定論」 の記事明日香壽川(東北大学)らのコメント討論会で使われたパワーポイントなどを参照されたい。そのようなトンデモ説を中西氏は信じちゃったようだ。まあ、温暖化のメカニズムについて勉強したこともないしろうと(*1)だから、説得力があると思ってしまっても仕方がない点はあるかもしれないが、「温暖化説の仕掛け人は原発業界」とか「CO2温暖化説に批判的な論文は定評ある学術誌には掲載されない」とかいうトンデモ論に典型的に見られる陰謀論(*2)がちりばめられているにもかかわらず、それには気付かなかったのだろうか。というより、むしろ積極的に支持している風でもある。槌田説の論文が定評ある学術誌には掲載されないのはCO2温暖化説に批判的だからではなく、間違っているからに過ぎない。実際、CO2温暖化説に批判的な論文が定評ある学術誌に掲載された例はある。よしんばCO2温暖化説に批判的な論文が掲載されないという風潮があったとしても、掲載されないという事実のみから学会にこのような風潮があると結論づけることはできない。

問題は単にトンデモを信じちゃったことのみにとどまらない。

では、おまえは?

では、おまえはどう考えるのか?と聞かれそうである。

答えは、相当日和見である。二酸化炭素による温暖化はあり得るが、今の学説やモデルでの推計がどの程度正しいかは分からない、したがって、二酸化炭素排出を一定程度削減すべきだが、がむしゃらに二酸化炭素排出を削減すればいいというものでもない(逆の問題が起きるような対策には注意が必要)。冷静に観測して、証拠を集めるだけの時間もあるし、また、厳しく削減すれば、一挙に生活を直撃するし、資源戦争を誘発するかもしれないような難しく重大な課題だから、もっと、科学的な根拠が共有されなければ、やはり無理なのだと考えている。

その意味で、学会やあらゆる紙面、テレビ等は両方の意見に対して開くべき時と思っている。特に学会には注意してほしいと思う。多数決で統一見解を出すことが必要な時もあるだろうが、多数派の意見が間違いかもしれぬという思いを常に残した、運営、議論の場の設定がどうしても必要だと思う。これは、6月号の中央公論に書いたことと同じなのだが。

温暖化対策について日和見主義であること自体は別に問題ではないように思う。問題はその次だ。学会やあらゆる紙面、テレビ等は両方の意見に対して開くべき、って言うけれど、そもそも学会が開かれていないという認識って正しいの?おそらくこれは「CO2温暖化説に批判的な論文は定評ある学術誌には掲載されない」という主張を受けてのものだろうが、こういった風潮が実際にあるのかどうか、どうして温暖化のメカニズムについて勉強したこともない中西氏に判断できるのだろう?どうして「単に間違いだらけなので掲載された」わけではないと判断できるのだろう?このような判断は温暖化メカニズムに熟知した者でないと無理であると私は思う。それとも中西氏は一般書を一冊読んだだけで温暖化メカニズムを熟知したつもりになっちゃったのかな?

中西氏の著書を読むと、これまで氏が学会その他が抱える不条理な面に直面してきたという点があり、それへの反発が現在の氏を形作ったとも言えそうだ。確かに学会やマスコミの姿勢は時として偏向することがあるのは事実だろう。そういった体質を批判しようとする氏の姿勢は理解できないわけではない。しかし、だからといって両論を熟知していない者が安易に両論併記などと主張すべきではあるまい。それはかえって専門家による相互批判とそれによる理論の取捨選択で成り立ってきた学会本来の良さを消してしまうことになるだろう。議論されずに捨てられた理論に対して、その理論を熟知した者が「もっと議論せよ」と言うのは正しいが、議論されて(あるいは議論されるまでもなく)捨てられた理論に対して、その理論を熟知していない者が「もっと議論せよ」と言うのは戯言にしか過ぎない。中西氏がやっているのは後者の方だ。氏の主張は、進化論や相対性理論に対して無知な者が「創造論や相対性理論は間違っているという説はあり得るかもしれない。学会やマスコミはもっと両方の意見に対して開かれるべきだ」という主張をしているのと何ら変わりがないように私には思えた。

また、マスコミの偏向報道関連についてはマスコミの温暖化報道は偏向しているかで既に述べた通りだ。

結局のところ、一般書一冊で「わかっちゃった」つもりになったという自己の能力への過信がこのような愚論を導いているのではないだろうか。「なかなか説得力がある」と考えた時点で「自分の持っている浅薄な知識ではそう思えるだけかもしれない」という自己批判精神があればこのような事態にはならなかったように思う。このように、実績を積み上げてきた人物が調子に乗って能力以上のことをしようとしてしまうという症状は老害の症状の一つだが、中西氏も耄碌したってことなのか。少々辛辣な批判だったかもしれないが、氏の実績と評判を考えると、このくらいやらないと悪影響が広まる可能性が高いように思える。トンデモの片棒を担いだ、っていう表現も多少大げさかもしれないが、結果的に見るとそうなってしまったように思える。本人の意志でやったわけではないのだろうが。

(*1)本人の弁による。

(*2)「人類の月面着陸というねつ造はアメリカの陰謀」とか「進化論に批判的な論文は定評ある学術誌には掲載されない」とか。

(追記:懐疑論への反論を追加しました。2006/06/16)

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2006年6月12日 (月)

毎日新聞の間違い

今更の話だが、毎日新聞の記事に間違いを見つけたので報告。

温室効果:1億年前の大西洋、熱めのお風呂なみ?2006年2月18日 (土) 毎日新聞

大西洋の熱帯海域の表面温度が、8400万~1億年前には最高で熱めのお風呂なみの42度に達していたとの推定を米ウッズ・ホール海洋学研究所(マサチューセッツ州)の研究者グループが17日発表した。

高温化の要因の一つは現在の約3.4~6倍あった大気中の二酸化炭素(CO2)濃度という。今回の推定に基づけば、現在の地球温暖化予測モデルはCO2の温室効果を過小評価しており、温暖化が予想より急激に進行する可能性もあるとしている。

同研究所のカレン・バイス研究員らは、南米スリナム沖の海底から03年に採取した堆積(たいせき)物に含まれる有機物や微生物の化石の化学組成を分析。同海域の当時の表面温度は33~42度(現在24~28度)で、大気中のCO2濃度は1.3~2.3%(同0.38%)だったと推定した。

バイス研究員は「推定値が正しいとすれば、現モデルは、CO2濃度が1%以上増加した場合の温室効果を過小に見積もっている可能性がある」と指摘している。

現在のCO2濃度が0.38%ってことはないだろ。380ppmだとして、0.038%だな。

元ネタはこちら

They were 1,300 to 2,300 parts per million (ppm), compared with 380 ppm today.

桁が間違ってるよ。だれも気付かなかったの?毎日新聞の中の人たち。

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2006年5月29日 (月)

北極圏の観測態勢

今日はNatureからの拾い読み。
なんでも、2007-08年はおよそ25年ごとに回ってくる国際極年(International Polar Year)なんだそうだ。第1回は1987年、第2回が1932年、1957年が国際地球観測年となっている。1980年代が抜けているのは冷戦の影響だろうか。
極年っていうネーミングはなんだかすわりが悪い気がするが、どうやら昔からそういう名前になっているようで、今更変えるというのも難しいのだろう。
さて、冷戦の終局も受け、来る極年に向けて北極圏を囲む8カ国(アメリカ合衆国、カナダ、ロシア、デンマーク、アイスランド、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド)が共同による調査を計画しているとのこと。比較的研究が進んでいる南極と比較すると、北極域での研究は遅れており、様々な成果が期待できよう。
その一方で、長期的な観測態勢に暗雲が・・・
予算の都合から自動観測態勢にほころびが見えてきているようだ。
細く長い観測か、手広く短い観測か。
研究費の配分はさじ加減が難しい。

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2006年4月28日 (金)

水田が地球温暖化に及ぼす影響

以前の記事「呼吸で排出される温室効果ガス:亜酸化窒素」で紹介したように、温室効果ガス=二酸化炭素というわけではなく、そのほかにも温室効果をもつ気体が大気中には存在する。亜酸化窒素も温室効果ガスの一種で、二酸化炭素の約300倍の温室効果をもつ。

IPCCは二酸化炭素やその他の温室効果ガスについて、その排出量を見積もるためのガイドラインを作成している。簡単に言うと、これだけの窒素肥料を施用すると○○%の亜酸化窒素が発生する、というような計算式とデータセットを提供している。各国はそのガイドラインを用いて自国からの温室効果ガス排出量を求めるという手順だ。

今回紹介する記事は、ガイドラインで採用されているデータセットを水田に適用すると亜酸化窒素の排出量を過大評価してしまう、という話。

地球温暖化:水田で使う窒素肥料の影響を過大評価

 水田で使われる窒素肥料が原因で発生する亜酸化窒素の量は、温室効果ガスの排出量の計算に使われる国際機関のガイドラインで示された発生量の約4分の1に過ぎなかったことが、農業環境技術研究所(茨城県つくば市)の調査で分かった。「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」は5月に、ガイドラインを改定する見込み。

 亜酸化窒素は、二酸化炭素の約300倍の温室効果があり、地球上の全発生量の24%が農耕地から発生すると推測されている。この研究は、欧米の科学者が中心になって計算していたため、水田に対する考慮がなかった。

 同研究所は、水田からの発生量は、直接外気と触れる畑とは大きく異なると考え、6カ国149カ所の水田でデータを測定。解析の結果、水田から排出される亜酸化窒素の排出係数は従来の1.25%の約4分の1に当たる0.31%だったことが分かった。国内の亜酸化窒素の発生推定量は約10%多く見積もられていたという。

 同研究所企画戦略室の秋山博子主任研究員は「欧米の研究者が多いIPCCでは、日本やアジアの事情が考慮されることはあまりなかった。今後も積極的に研究成果を示していきたい」と話している。【石塚孝志】

毎日新聞 2006年4月26日 東京朝刊

水田と通常の畑では水管理が違い、それが土壌の微生物生態系に大きな影響を及ぼす。通常の畑土壌には酸素が多く存在する一方、水田土壌には酸素は少ない。つまり、畑土壌には好気性生物による生態系が、水田土壌には嫌気性生物による生態系が存在しているということになる。農業由来の亜酸化窒素のほとんどは土壌中に存在する硝化細菌や脱窒細菌などの微生物によって作られていると考えられているから、畑土壌と水田土壌のように劇的に異なる環境では窒素の代謝もまた劇的に異なると考えたほうが妥当だろう。

こういった事情を欧米の専門家が知らなかったわけでは、もちろんない。知ってはいたが、研究には結びつかなかったというのが正しい見方だろう。考えられる理由はいくつかある。一つは、欧米における水田に対する関心の低さ。仮に専門家が関心をもっても、スポンサーである政府や社会が食いつかなければ予算はとれず、研究を行うことはできない。もう一つは、地域的な縄張り争い。べつに縄張りについて確たるルールがあるわけではないが、こういった地道なフィールドワークを要する研究では、アメリカの研究者は中南米に、ヨーロッパの研究者はアフリカに、日本の研究者は東南ー南アジアに地盤を持つことが多い。そのため、米作地域であるアジアに地盤を持っていない欧米の研究者はなかなか入れないといった事情もあるのだろう。それだけに、日本にはアジア地域においてリーダーシップを発揮するよう求められている。

アジアには世界人口の6割ほどが住んでおり、その多くが米を主食としている。人口動態を見る限り、米の役割は現在よりも大きくなっていくだろう。その米作がどのように環境に影響を与えるのだろう。これからもっと研究を進めて欲しい。

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2006年4月21日 (金)

池田清彦「環境問題のウソ」を読む:第1章(6)

第3節:人為現象それとも自然現象

この節では、世界の気温変動が人為的なものなのか、それとも単なる自然現象なのかを論じている。私が読む限り、この節が最悪。

先に述べたGISSの世界の気温の変動データによれば過去百年間に世界の平均気温は〇・五ー〇・七℃上昇した。一応これを信じるとしても、それは巷で言われて言われているようにCO2の人為的排出だけが原因のすべてだとはとても思われない。(中略)地球の平均気温は一丸四〇年から七〇年まで三〇年間で〇・二℃下降したにもかかわらず、CO2の濃度は三一〇ppmから三二五ppmまで急激に増大している。全世界の年間炭素排出量を見ると、一九四〇年ころまではせいぜい一〇億トンだったものが、一九七〇年には四〇億トンに増大している。これだけでも、人為的地球温暖化説はあやしいと私ならば思ってしまう。少なくとも地球の気温にはCO2以外の要因が働いていることは絶対に確かであろう。

p25-27

こういったコンピュータのシミュレーションモデルがデータ整合的にならないのはなぜなのか。より重大な原因を見落としているのではないか。もっとはっきり言えば、CO2濃度の人為的上昇のみを温度上昇の原因とするモデルは間違っているということだ。

p31

次に筆者は太陽活動について取り上げ、

 気象庁が一九八九年に発表したレポートには「地球全域の平均海面水温の長期変動は、太陽黒点数の長期変化とよく対応していること書かれ、過去一二〇年余りの変動グラフが載っている(図8)。これを見ると大腸黒点数が増加した時には水温が上がり、減少した時には水温が下がっていることがよくわかる。CO2の増加が温暖化の主因とする説では説明できなかった一九七〇年頃の低温も、太陽主因説でうまく説明できる。太陽黒点数はこの時期、その前後に比べずっと少なかったのである。

p33-34

と書いている。これらを読むと、筆者が人為的地球温暖化説についてまったく無知であることがよくわかる。要するに、筆者は人為的地球温暖化説がCO2濃度の人為的上昇のみを温度上昇の原因とする説だと誤解しているということだ。これはこのイラストを見てもよくわかる。

P32_1

だがしかし、そのような筆者の理解は明らかに間違っている。たとえば、IPCCの第三次評価報告書では過去の気候変動がCO2濃度等の人為的要因だけでも、太陽活動等の自然的要因だけでも再現が不十分で、両者をともに考慮することによって最もよく再現できると書かれている。ここでは筆者が指摘するようなCO2の増加が温暖化の主因とする説では説明できないとしている1970年頃の低温も再現されている(もちろん再現されているからといって、将来にわたってそのモデルの正しさが証明されるわけではないけれど)。
結局のところ、筆者が想像しているような、CO2のみを温暖化の原因と決めつけているような専門家は筆者の脳内にしか存在しないということなのだ。
現在専門家の間で議論が行われているとすれば、温暖化が人為現象なのか自然現象なのかという単純な議論ではなくて、温暖化には人為現象と自然現象のどちらがどの程度寄与しているのか、という程度問題の議論だろう。

これまでの歴史の中で、ある学説が、その学説を理解していない者による批判によって覆された例を私は知らないし、これからもないであろうと、私は思う。

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2006年4月13日 (木)

マスコミの温暖化報道は偏向しているか

このところ「地球温暖化」等のキーワードでググってみると、ブログや掲示板等で「マスコミの温暖化報道は偏向しており、温暖化が二酸化炭素のせいであることが科学的に証明されているかのように報道されている。だが実際調べてみると、温暖化が二酸化炭素のせいであることが証明されたというには程遠い、単なる仮説に過ぎないことがわかる。マスコミはこれまでのような偏向報道を止めて、もっと多様な考え方を紹介すべきだ」といったような論調に出くわすことがある。

私はこのような主張を読むたびに考え込んでしまう。確かに現状認識としてはほとんど正しいことを言っている。にもかかわらず、この手の主張にはどうしても諸手を挙げて賛成できないのだ。

地球温暖化の最大の要因が二酸化炭素である、という説(以降、温暖化人為説と呼ぶ)は完全に証明されたものである、といった類のものでないことは言わずもがなだろう。しかし、だからといって単なる仮説に過ぎない、というのも言い過ぎだ。全ての科学理論は完全に証明されることはないので、全ての科学理論は仮説である、というのと同じ意味では温暖化人為説は仮説ではあるのだろうけれど。

私は、このような温暖化人為説を単純に仮説なのか、それとも証明されたのかという2分法で考えるのは得策ではないと思う。もっとアナログ的な、確からしさという尺度で考えるべきだと思う。温暖化人為説の確からしさとしては生命宇宙起源説よりは確からしい一方、大陸移動説よりはあやふやだろう。程度表現でいうなら、専門家の多くが正しいと考えている程度の定説、といった辺りだろうか。

だからといって、私は単純にマスコミを「証明されたかのような報道をしている」と批判する気にはなれない。それを言ったら、大陸移動説だって完全に証明されたわけでもないのに証明されたかのような報道をしている、と批判しなければいけなくなるだろう。どんな科学理論にしろ完全に証明されてはいないのだから、上のような批判を無制限に行ったら、どのような理論も批判の対象となってしまう。要するに、そもそも証明されたかのような報道をもって字義通り証明されたと理解すること自体が間違っているのだ。決めつけのような報道があってもそれが将来覆される可能性があることを考慮しつつ受け入れる、というのが正しい受け止め方のはずなんだが、そのような約束事を理解せずに鵜呑みにしてしまうと騙された気分になってしまうのだろう。

ここで終わると、「問題の程度が違うだろう」という反論が来そうなので補足しておこう。確かに、上で書いたように温暖化人為説の確からしさはそれほど高いものではない。決めつけのような報道が許されるとはいっても、あまりにも確からしさのレベルが低いものまで許してしまうとかえって混乱を助長させてしまうだろう。それを防ぐという意味では、あやふやな理論を決めつけで報道すべきではない、という批判はそれなりに意味のある行為だ。

ただし、そのような批判は、批判する者が理論について、その確からしさのレベルを十分理解してはじめて意味を持つということを理解すべきだ。その理論について精通していない者が理論の確からしさについて言及できようはずがないことは言うまでもなかろう。

例えば、アメリカ教育界における進化論と創造論の問題を取り上げてみよう。現代科学では進化論はかなり確からしいとされている一方、神が一日にして全ての生物種を造ったという創造論は科学的には間違っているとされている。生物進化について正しい理解をしている者ならば、「進化論について証明されたかのような教育をしているのは偏向教育であり、創造論も教科書に取り上げるべきだ」というような主張は決して行わないだろう。そのような馬鹿げた主張をするのは決まってその理論を理解していない者だ。

進化論と創造論のような、真偽がかなりはっきりしている理論に比べると、温暖化人為説に関する理論はもっと混沌としている。温暖化人為説は進化論ほど確からしくはないし、それを否定するような理論も温暖化太陽説のように考慮に値するものから、二酸化炭素自然起源説のような取るに足らないものまで様々だ。そういう意味では、決めつけのような報道への批判は進化論と創造論の問題と比べるとそれなりに意義がある可能性はあるだろう。ただし、それは上でも書いたように、温暖化問題について正しく理解している者が行うべきことであって、理解が不十分な者が行うべきことではあるまい。

・・・とは言うものの、マスコミの中にも偏向報道だと思わざるをえない場合があって、それが混乱を生んでいるというのは否定できないのだけれど。

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2006年4月 7日 (金)

池田清彦「環境問題のウソ」を読む:第1章(5)

やれやれ、やっとパソコンが復旧した。結構時間がかかってしまった。まあデータの消失がなかったのは不幸中の幸いか。ではひき続き「環境問題のウソ」を読む、の続き。

第2節:温暖化は昔もあった

この節では、千年から数百万年のオーダーで過去の気温を紐解き、昔も暖かかった時期もあるので、現在温暖化が進行しているからといって、その原因が即二酸化炭素であるとは言えない、と主張している。

この節はツッコミどころが少ないので、さらっといこう。

ホッケースティック問題

まずは千年単位の気候変動を論じている。要はホッケースティック問題というやつだ。この問題についてはこちらがよくまとまっているので、詳しく知りたい方は参照されたい。簡単に説明すると、IPCCで採用された年輪の分析による千年単位の気温の変動のデータは実情を反映していないのではないか、という問題だ。さらには元データが同じでも結果が違ってくるという問題もある。この問題については現在も論争が続けられている。個人的には年輪による分析は未だ発展途上と考えた方がよいように思う。

次に出てくるのは珊瑚礁の分析による水温の変動のデータだ。

この方法によるニューカレドニアの珊瑚礁の一七世紀からの分析結果を見ると陸上の気温より変動は少ないようだし、変動パターンも少し違う。(図4)。一九五〇~六〇年頃が水温が一番高くて、陸上のパタンとは一致しない。海中と陸上では温度変動のパタンが違うとすれば、地球表面の温度を決める要因は複雑で、CO2の増大イコール地球規模の温暖化といった単純な話にはならない、と考えた方が合理的だ。

p19-20

海中と陸上の温度のパタンとは一致しない、と単純に決めつけてしまっていいのだろうか。珊瑚のデータは1点であるのに対して、年輪や温度計のデータは平均値だ。以前も見たように、平均で見ると気温は上昇しているが、ここのデータを見ると必ずしもそうではなく、結構ばらついている。ということは、海水の温度だってばらついていたっておかしくない。比較するなら全球の気温と海水温、あるいはその地点での気温と海水温を比較しなければいけないだろう。ある地点の海水温と全球の気温を比較しても大して有益な情報は得られないだろう。

その次はさらに昔の気温の変動について紹介している。これについては特になし。

(4/12追記)

気象庁の「海洋の健康診断表」のページで海面水温の長期変化傾向(全球平均)を見ることができる。これを見る限りでは海面水温と陸上の気温との差はそれほどないように思える。

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2006年3月13日 (月)

池田清彦「環境問題のウソ」を読む:第1章(4)

今回はさし絵に対するツッコミ。

1_1

p13

都市部に観測地点が多いからといって平均気温が必ずしも高めに出るとは限らない。ヒートアイランド現象などによる影響は補正してある。その補正が必ずしも正しいとは限らないが、平均気温が高めになるような補正であるとは限らない。田舎や海の観測地が少ないってのはごもっともだが、そもそも地球の平均気温を推定するために気温の観測をしていたわけではないので致し方ないところ。細かいところだと、CO2濃度はどこでも同じではない。昼間の森林では低いし、都市部では若干高くなる。CO2の2は下付き。

2

p14

衛星は空間的なばらつきは少ないが、時間的な変動があり得る。どちらが正確かは現時点では微妙なところだと思う。

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池田清彦「環境問題のウソ」を読む:第1章(3)

GISSの平均気温のデータの算出方法への疑問

今度はGISSの平均気温のデータの算出方法に疑問を呈する。

GISSの平均気温は世界各地六三〇〇ヵ所で測定した気温の平均である。先に記したように、この中に都市が多ければ、都市のローカル・ウオーミングの温度上昇が反映され平均気温は上昇する。CO2の濃度は都市でも田舎でもほとんど同じだから、もしCO2の濃度と気温の関係だけを調べたいと思えば、田舎の気温を集めてそれらの平均値を採用すべきであろう。GISSは、このような批判を考慮して、都市の気温は都市化を考えて補正してあるとのことだが、都市の気温はそもそもデータから外す方が、グローバル・ウォーミングが起きているかどうかを検証するには有効であろう。

p13-14

要するに、GISSの平均気温のデータは都市の気温によって大きく影響を受けているので信用できない、ということだろう。確かに補正したといっても、それがどの程度正確なのか、その点について疑問を持つことはおかしなことではない。しかし、著者は単に疑問を呈するに留まらず、都市の気温はデータから外すべきだ、という主張をしている。

都市の気温を外すべきかどうか、その判断は都市の気温の補正の正確さに依存する。もし補正が不正確なら、都市の気温を外した方が平均気温は正確さを増すだろう。一方、補正が正確なら、都市の気温を含めた方がデータの点数が多くなり、平均気温は正確さを増すだろう。つまり、都市の気温を外すかどうかを判断するためには補正の正確さを判断するための専門的な知識が必要になる、ということだ。私は著者がそこまでの知識を有しているかどうか少々疑問に思う。

また、補正は必ずしも正確ではなく、実際とはずれている可能性がある、ということは正しいが、それが必ずしも著者が危惧する(期待する?)方向にずれているとは限らない。たとえば、東京の気温について実際は2.5℃下方に補正すべきところを3℃補正していたとしたら、その分GISSの平均気温は実情よりも下がって見積もられることになる。つまり、都市の気温をデータから外すことによって、GISSの平均気温は現在の見積もりよりも上がってしまうという、著者の意図とは逆方向の事態も起こりうるわけだが、果たして著者はその結果をも受け入れるのだろうか。なんだか今度は「GISSの平均気温が下がるように都市の気温の補正をしてデータに加えるべきだ」とか言いそうで怖いんだが、それは杞憂だろうか。

また、測定地点と頻度の偏りを批判してこのように述べる。

それに測定地点はアメリカとヨーロッパに偏り、海の上にはほとんどないのだから、GISSのデータから、地球の真の平均気温を推定するのは、そもそも暴論なのである。

p14

海の上にはほとんどないのだからそれほど正確ではないのではないか、というのならその通りなのだろうが、暴論というからには代替可能な推定法がある、というのだろうか。もしあるのならそれを利用すればいいのだろうが、ない場合は最もいい方法を使うしかあるまい。筆者はその代替法として衛星による測定を引き合いに出す。しかしながら、衛星による測定には問題がある、と筆者自身が書いておきながら、地上観測のみを貶めるというのはどういう理由によるものだろうか。さらにいうなら、衛星のデータは1980年ころ以降しかなく、それ以前の代替しうるデータはないのだ。そのような状況で暴論と批判したところで現状が改善されるわけではない。

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2006年3月10日 (金)

池田清彦「環境問題のウソ」を読む:第1章(2)

第1節:地球温暖化は本当なのか

この節では、地球の全球的な気温の測定法に対して方法論的に危ういものであるとし、「それほど信用ものではなさそうなのは確かであろう」としている。

では、最初から読んでみよう。

都合のいいデータの取捨選択

最初はグローバル・ウォーミングとローカル・ウォーミングの話。

東京に住んでいると何だか年々暑くなっている気は確かにする。(中略)でもそれは、今流行りのグローバル・ウォーーミング(地球規模の温暖化)じゃなくて、ローカル・ウォーミング(局地的な温暖化)じゃなかろうか。

p8-9

と、暑くなっている実感はあるが、それは単にローカルな話なんじゃないか、という疑問を呈している。それは9割方その通り。そもそも地球温暖化しているとは言っても、たかだか100年で1度足らずの話。実感として簡単にわかる、という性質のものではない。

東京の気温を見るとここ百年ほどで三℃上昇したことがわかる。一方、静岡県の網代や伊豆諸島の三宅島では、一九四〇年頃から一九九〇年頃まで気温はほとんど変わらない。都市の気温は確かに上昇しているかもしれないが、田舎では上昇していないとなると、都市の温暖化はコンクリート・ジャングルや冷暖房などによる、いわゆるヒートアイランド現象で、地球規模の温暖化ではないのかもしれない。グリーンランド、アラスカ、昭和基地やアムンゼン・スコット基地(南極)などの気温変化のデータも、一九四〇年頃から(南極では一丸六〇年頃から、それ以前のデータはない)現在に至るまで、これらの地域の温度はほとんど上昇も下降もせずに椎移していることを示している。南半球の田舎、たとえばチリのイースター島や南ア共和国のカルビニアではむしろ気温は下がり気味だ。

p9-11

この論法はちょっとひどい。なにがひどいかというと、数多くある田舎の気温データのうち、気温が変わらないか、逆に低下しているものを著者が都合良く選択してあたかも田舎では気温が上昇していないことを印象づけている点だ。実際のデータはGISTEMPから見ることができる。確かに網代三宅島では気温の長期的な変動は見られないが、河口湖八丈島ではだいぶ気温が上昇しているように見える。そんなやり方が許されるなら、誰でも簡単に、自分の都合のいいように(実情とは異なる)結論を示すことが出来てしまうだろう。河口湖八丈島のデータを提示して、やはり田舎でも気温は上昇している、とかね。そういったごまかしを許さないために恣意的なデータ選択は許さないというのは科学の基本なんだが、著者はそのあたりは理解できないのだろうか。それとも、知っててやってる?

過去のデータからの未来予測

次は全球データを引き合いに出してこう主張する。

このグラフを信じれば、僕かに平均気温は上昇しているように見える。しかし、コンスタントに上昇しているわけではなく、一丸六〇年代から七〇年頃まで、気温は前後に比べてかなり低かったのである。だから、このまま上昇し続けると考えるよりも、むしろ再び下降に転じると考える方が合理的だ。数年間、平均株価が上昇し続けても、そのまま永遠に株価が上がり続けると考えるバカはいない。

p11-12

本当に再び下降に転じると考える方が合理的なんだろうか。過去のデータのみから未来を予測するのはそう簡単ではないように思える。周期的な変動があり、かつそれによる影響が支配的であってはじめて予測が成り立つのではないだろうか。私は「過去の気温変動のみからでは今後どのように気温が変動するかはわからない」と考える方が合理的なように思える。また、筆者の言いたいことを株価でたとえるのは不適切だろう。確かに平均株価はそのまま永遠に上がり続けることはないだろう。しかし、平均株価は上昇と下降を繰り返しながら長期的には上昇を続けている。将来も長期的には上昇を続けると考えてもそんなにおかしくはないだろうし、平均気温もこのような動きをしないとは限らない。

次は過去の気候を引き合いに出し、

地球の平均気温が下降気味の時は、このままではやがて氷阿期になるという話が流行り、上昇気味の時は、やがて南極の氷が融けて大変なことになるという話が流行る。

p12

と気象学者を揶揄する。これについてはこちらの書評が詳しい。

つづく

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2006年3月 9日 (木)

池田清彦「環境問題のウソ」を読む:第1章(1)

今回からは各章ごとに読んでいくことにする。

第1章 地球温暖化問題のウソとホント

この章では地球温暖化問題への疑問をぶつけている。以下、簡単にまとめる。

まず「地球温暖化は本当なのか」では、地球の全球的な気温の測定法に対して方法論的に危ういものであるとし、「それほど信用ものではなさそうなのは確かであろう」としている。これは旧hechikoのブログ地球温暖化理論とそれへの批判の論理的構図の1-1.「地球の平均地上気温は,20世紀に約0.6℃上昇した。」への批判に分類できる。

次の「温暖化は昔もあった」では、千年から数百万年のオーダーで過去の気温を紐解き、昔も暖かかった時期もあるので、現在温暖化が進行しているからといって、その原因が即二酸化炭素であるとは言えない、と主張している。この中には地球温暖化理論とそれへの批判の論理的構図1-2.「20世紀における気温の上昇は,過去1000年のどの世紀よりも大きかった。」への疑問が含まれている。

「人為現象それとも自然現象」では、CO2濃度と気温に相関がなく、気温の変動にはCO2以外の要因が関与していることを示している。そして気温の変動は太陽の活動によって大きく影響されるとしている。この主張は地球温暖化理論とそれへの批判の論理的構図2-2.「自然起源の因子は,過去100年間では放射強制力にあまり影響していない。」への批判に分類できる。

「温暖化で何が起こるか」では、地球温暖化が地球環境、あるいは人間社会にどのような影響を及ぼすのかを、海水面上昇、異常気象、健康被害、農業という具体例を挙げて、一般に広まっているイメージと最新の科学的な予測にギャップがあることを説明している。これらは地球温暖化理論とそれへの批判の論理的構図4.温暖化は悪影響を及ぼす(影響予測)への批判に分類される。

最後の「CO2削減政策のデメリット」では、CO2削減シナリオが実現したとしても百年後の気温上昇をたった6年遅らせるだけで、コスト高の割には割に合わないものであると主張する。この主張は地球温暖化理論とそれへの批判の論理的構図5-1.「温室効果ガス排出を抑制することで影響を緩和することができる。」への批判に分類できる。

これらを簡潔にまとめると、「温暖化しているかどうかはよくわからない。昔も暖かかった時期はあるので現在の温暖化がCO2濃度の上昇によるものかどうかは不明。実際、太陽活動によって温暖化が起こっているように見える。温暖化による悪影響は思ったほどじゃないし、CO2を今すぐ削減してもコストがかかるだけで温暖化防止にはほとんどならない。だからCO2削減なんて行うべきじゃない。」といった感じか。こうやって書いてみると実にオーソドックスな批判が並べられている感じだ。

とりあえず、今日はここまで。次回から細かく見ていくことにする。

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2006年3月 6日 (月)

池田清彦「環境問題のウソ」を読む(2)

なんでもかんでも「お上の陰謀」

この本を通して書かれているのは「環境問題はでっち上げが多く含まれていて、それには役人や役人とつるんで儲けている人たちの思惑が見え隠れしている」というものだ。

一言で言うなら、お上の陰謀、というわけだ。

実例を挙げよう。

第一章 p.50

温暖化抑制というほとんど実効性のない政策のために、日本だけで毎年一兆円も二兆円もドブに捨てられたのでは国民はかなわない。それで食ってる一部省庁の役人や環境関連の企業はうれしいかもしれないけどね。

第二章 p.84

ダイオキシン法が施行されて得をするのはまずハイテクの焼却炉を作るメーカーであり、ダイオキシンを分析する業者であり、監督官庁の役人だろう。だからこういった人たちがグルになって、ダイオキシン法を作りたいと思ったとしても不思議はない。

第三章 p.121

ブラックバスが食用魚として市場性があることになれば、わざわざ税金を使って駆除しなくとも、、タダで捕ってくれる人が現れることになる。ブラックバス駆除派の人々にとってもそれはとってもいいことだと僕は思うんだけど、実はとっても悪いことらしい。なぜって、ブラックバスを駆除して税金を使おうという利権が消えちまうものね。

第四章 p.135

環境省は環境を守るふりをする役所であって、環境を守る役所でないってことはよく覚えておこうね。

確かに著者の指摘するとおり、こういった環境問題には官庁の利権が絡むというのはおそらく一面の真実ではあるだろう。しかし、官庁がそういった利益確保を主目的として動いている、というのは根拠のない陰謀論に近い。

どうして著者は、環境問題を必要以上に問題だと主張する人たちは利権が絡むからそう騒ぎ立てているだけなのだ、という推測だけして、環境問題を必要以上に問題ないと主張する人たちは利権が絡むからそう騒ぎ立てているだけなのだ、という主張をしないのだろう?もし環境問題を利権が絡んでいるだけだとするならば、大変じゃない大変じゃないと騒ぎ立てている人たちの中には、将来を心配しているまじめな人たちもいるんだろうけれど、根が不真面目で疑り深い僕は、環境問題って実はやっかいな問題で、これで損をする人たちが大変じゃない大変じゃないと騒いでいるんじゃないかと勘ぐっているわけです、などと言ってみたりもできてしまう。

私が思うに、環境問題を論じる人は、楽観論者にしろ悲観論者にしろ行動規範は次の3タイプに分けることが出来ると思う。

1.事実を元に、社会のための主張を行うタイプ。新しい事実が判明する度に結論を修正する。

2.事実関係を重視せず、自己の利益のための主張を行うタイプ。始めに結論があり、それを変更することはない。またそのためには事実をねじ曲げることも厭わない。

3.タイプ1あるいはタイプ2の人に振り回されるタイプ

著者は少しタイプ2の人間を強調しすぎているのではないだろうか。実際は楽観論者にしろ悲観論者にしろタイプ2の人間はそれほど多くはないと感じている。

ちなみに著者自身は、少なくとも専門外の地球温暖化、ダイオキシン問題についてはタイプ3に近いだろう。後半の生態系の問題辺りだと、タイプ1と2が半々程度か。ネタ本の著者である渡辺正や伊藤公紀なんかはタイプ1に近い。私自身はタイプ1でありたいと思っている。

つづく

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2006年2月27日 (月)

池田清彦「環境問題のウソ」を読む(1)

今回は本のレビュー。読んだ本はこちら。

環境問題のウソ

ちくまプリマー新書 池田 清彦 (著)

読後の印象を一言で表すと「ネタ本の劣化コピー」だった。

著者自身があとがきで書いているように、この本の前半は著者の専門分野ではなく、そのネタの多くはネタ本からのコピーだ。それだけならいいのだが、所々に著者自身の問題のあるオリジナルな主張を織り交ぜてくる。例えば、「820年分のダイオキシンを摂取しなければ、半致死量には届かないということだ。普通の生活をしている限り、ダイオキシンで死ぬことはあり得ない。」など。もちろんこれは明らかに間違っている。
大した問題ではないのに「問題だ問題だ」と騒ぎ立てるのは問題だが、逆もまた然り。多少なりとも問題があるのに「なんの問題もない」と騒ぎ立てるのもやはり問題なのだ。
この本の内容全てが間違っているわけではないが、懐疑論に興味がある方はむしろネタ本の方を読むことをお勧めする。

つづく

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2006年2月24日 (金)

ガセネタを掴まないために

巷じゃ堀江メールはガセ、というのが大勢のようだ。本当にガセかどうかはともかく、これ以上堀江メールが本物であるという確証は出てきそうにもない。永田寿康衆院議員はテレビのインタビューに「情報提供者は友人として信頼していた。その友人が言うのだから間違いない」などと答えていたが、もうワキが甘いとしか言いようがない。しかし、この人に限らず、ガセネタを信じてしまう人ってのはいるし、日常的にもそういう場面には結構出くわす。今回はそんな実例を挙げて、ガセネタを掴まない、信じないためにはどうすればいいのかを考えてみる。

始まりは単なる情報提供だった。

Yahoo!掲示板トップ > 科学 > エネルギー > 地球温暖化に対処する方法 msg.408

NASAの研究者によると、グリーンランドの氷が予想を上回る速度で溶け出しているそうだ。これから、今までのモデルでは予想できない速度で氷山は崩壊し、今世紀末には海面は20m(引用者注:後に25mに訂正された)上昇すると予測している。もう、カーボンの捕集などという、未来の技術に期待していられない、今ある技術で10年以内に二酸化炭素の放出を削減しないと地球は崩壊すると警告している。
 今年の寒波は氷山の融解に伴う寒気の南下によると、素人的には考えてしまう。

海面が25mも上昇するってのには正直驚いた。IPCCの第三次報告書でもその範囲は0.09~0.88mと予想されている。いくら予想を上回るとはいえ、この数字は桁違いだ。しかも、グリーンランドの氷床がすべて融けたとしても海面水位の上昇はが約7m程度にしか過ぎないと予測されている。25mも上昇するとなると、南極の氷床の多くが融けることになる。しかし、現在の予測では南極の氷床の質量は,降水量の増加によって増える可能性が高いとされている。

この時点で考えられる可能性は3つ。

1.NASAの研究者(後にハンセンだと判明)は確たる証拠をもってそう主張している

2.NASAの研究者は単にホラを吹いているだけ

3.どこかで誤読している

この情報にはやはりROMの人たちも不審に思ったらしく、ホラだのネタ元を出せだの言っているが、情報提供者であるglobalwarningjpさんは「NASAの研究者が言っているんだから間違いない」の一点張りで、結局ソースは示されないまま。

仕方がないので自分で調べることにする。「ハンセン 25m 温暖化」でググったがヒットせず。「Hansen 25m warming」でググる。発見。UK/インディペンデント紙2006年2月17日の記事だ。

Climate Change: On the Edge:Jim Hansen

要約すると、グリーンランドの氷床が予想より速く融けてきているという事実が明らかになったというもの。そこで氷床の融解と海水面の上昇に関して、過去の例を紐解いている。

How fast can this go? Right now, I think our best measure is what happened in the past. We know that, for instance, 14,000 years ago sea levels rose by 20m in 400 years - that is five meters in a century. This was towards the end of the last ice age, so there was more ice around. But, on the other hand, temperatures were not warming as fast as today.

How far can it go? The last time the world was three degrees warmer than today - which is what we expect later this century - sea levels were 25m higher. So that is what we can look forward to if we don't act soon. None of the current climate and ice models predict this. But I prefer the evidence from the Earth's history and my own eyes. I think sea-level rise is going to be the big issue soon, more even than warming itself.

問題の部分は"The last time the world was three degrees warmer than today - which is what we expect later this century - sea levels were 25m higher."の部分だ。これは「今世紀末に海面が25m上昇する」という予測ではなく、「今世紀末の気温として予測されている、現在より気温が3℃高かった最後の時代、海水面は25m高かった」という過去についての記述だ。

というわけで、結論としては

3.どこかで誤読している

が正解のようだ。

この実例から、あやふやな情報を掴まない、また提供しないためにはどうすればいいのかが見えてくると思う。具体的には

  • 伝聞情報ではなく、情報源に当たること
  • 情報を提示する際は、情報源(引用元)を明示すること。また情報源の開示を求められた場合はそれを明らかにすること

こうやって書くと、至極当たり前のことなんだけどね。

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2006年2月10日 (金)

プリウスの燃費は昼と夜でだいぶ違う

私はプリウスに乗っていて、毎日片道50kmを通勤しているが、このあいだ燃費を測ってみたら、行きと帰りでだいぶ燃費に差があることに気がついた。

行きはおよそ25km/L、帰りはおよそ21km/L。4km/Lもの差がある。

この原因は気温の差だ。行きは午前10時ー11時ころで、比較的暖かかった(だいたい15℃くらい)のでヒーターをオフにしてあった。一方、帰りは午後10時ー11時ころで、結構寒かった(だいたい3℃くらい)のでヒーターをつけて暖房にしておいた(A/Cはoff)。

ある程度差が出るだろうと予想はしていたが、ヒーターのオン/オフでこんなに差が出るとは意外だった。

普通の車の場合、ヒーターの熱はエンジンの排熱を取り込むので、ヒーターをつけただけではほとんど燃費に影響はない。ところが、プリウスは燃費がいいためにわざわざ暖房のためにエンジンを回す、ということをする。本来ならアイドリングストップすべき時もエンジンを回す。これが燃費の悪化につながる、というわけだ。

計算してみると、暖房に使うガソリン代は片道およそ400mL、50円くらい。これをケチって厚着をするか、それとも仕方がないものとして諦めるか。悩ましいところだ。

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