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2006年7月19日 (水)

イリーナ博士講演の大本営発表

いろいろなところで物議を醸しているイリーナ博士だが、どうやら私の地元でも講演を行っていたそうだ。さすがに私は行けなかったが、先日主催者側からの発表があったので引用する。

この写真を見る

まあ予想したとおりの大本営発表であった。発行元のつくば・市民ネットワークは生活クラブ生協を母体とした政治的な団体のようだ。幻影随想のイリーナ博士東京公演レポートコメント欄を読むと、生協全てがこのような活動を支持しているわけではないということのようだが、これでうちの地域の生協が黒いことは確認できた。

報告されたデータの問題点については上記幻影随想の記事や松永和紀のアグリ話●「科学」の名に値しない遺伝子組み換え毒性試験(1)「科学」の名に値しない遺伝子組み換え毒性試験(2)ロシア人科学者の遺伝子組み換え毒性試験を総括に譲るとして、今回はこの報告を読んだ感想をいくつか書こう。

日本を含め多くの国で安全性を承認されている除草剤耐性の遺伝子組み換え大豆の摂取が、ラットの出産や子どもの成長に影響を与えた

まあそうなるのであろうな、主催者側から見たら。自分たちの主張に都合のいいデータなら実験の信頼性などどうでもよいのだろう。

同じような実験を他の研究者にも実施してほしいと何度も述べていました。

こんなずさんな実験はできないし、やろうにも実験条件が明らかにされていない(本人すらわからない)し、仮にまともに試験をしたとしても「条件が違う」とか難癖つけて終了の予感が。

沢山の質問が出ましたが、時間の関係で全ての質問に答えることは出来ませんでした。後日、つくば・市民ネットのホームページで回答を掲載する予定です。

松永氏によれば質問は事前に主催者側によって取捨選択されていたようだ。となると、主催者側に都合の悪い質問が選ばれなかったというのもうなずける話だ。答えられなかった質問は後日回答されるようなので、全ての質問に答えているかどうかを含めて、ワクワクテカテカしながら待つとしよう。

(追記:イリーナ博士の論文はこちらで読むことができる。論文とはいってもシンポジウムでの発表だからどんなデータでも言いたい放題。)

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2006年7月18日 (火)

出張中・・・

出張とは言っても、お仕事しているわけではなく、単に環境ホルモン濫訴事件:中西応援団におじゃましているだけ。意外に(でもないか)話が伸びているので、更新がままならなくなっています。ご容赦を。

娘の方は順調です。週末一緒にいたけれど、日ごとに成長がわかる。すごいね。

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2006年7月12日 (水)

中村 政雄「原子力と環境」を読む

中西準子のホームページの雑感349-2006.6.13「原子力発電と温暖化」で前回まで話題にしていた槌田敦「CO2温暖化説は間違っている」と並んで取り上げられていたので読んでみることに。

アマゾンのブックレビューを見てみると、

あわせて買いたい
原子力と環境』と『CO2温暖化説は間違っている』、どちらもおすすめ!

となっていた。これって中西効果?

それはともかく、内容はというと、

第1章 ある環境活動家の変貌

第2章 石油文明の終わりと地球温暖化

第3章 資源小国・日本のおかれた立場

第4章 過密社会化する世界のゆくえ

の4章立てとなっている。

著者の言いたいことを簡単にまとめると、「エネルギー的にも環境的にも日本は原子力抜きではたち行かなくなるだろう。」というもの。その論調は、率直に言わせてもらえば、翼賛的で偏向しており、信用するに足りない。原子力のメリットはこれでもかとばかりに強調する一方、デメリットであるはずの安全性の問題については

 実験の失敗ばかりが大きく報道された。成功は小さく一度きりしか報道されない。これでは正しいイメージが世間に伝わらないはずだ。

p112

などと、原子力関連の報道に偏りがあるということだけを主張するにとどまり、実際の安全性はどうなっているのかについての言及はほとんどなされていない。また環境問題についても

 地球温暖化による気温上昇は、今後100年間に平均で2度前後と予想されている。温暖化は100年で終わるわけではない。南極と北極の気温は平均値の4倍くらい上がるから、200年後に平均で4度上昇すれば10数度の気温上昇となって、南極の氷は一部溶け出すだろう。全部溶ければ海面は60メートルくらい上昇するそうだから、いずれ東京もニューヨークも海に沈んでしまう。

p81-82

などと危機をあおるような書き方をしている。100年後に平均2度、極地で4倍ってのが正しいとして、200年後に4度って正しいの?単純にそれも極地で4倍していいの?よしんば南極の氷が溶け出すのがただしいとして、全部溶けるなどというありえない仮定で東京もニューヨークも海に沈むなどという予測を行うってのは「環境の危機ばかりが大きく報道された」ことにはならないの?

私は原子力政策について詳しくもないし、賛成でも反対でもないけれど、このように自分に都合のいい部分を強調し、都合の悪い部分は無視するような偏向した姿勢をとる論者の意見は信用するに足りないと考える。

また、一冊の本としての完成度もあまり高くない。

「原子力と環境」というタイトルではあるものの、原子力と環境の関連性について論じるのではなく、原子力問題と環境問題(その他エネルギー問題等)それぞれについて書かれるのみで、話題が拡散している。しかもその論じ方が「日本特有の多神教が世界強調に貢献する」などといった苦笑ものの持論か、使い古されたお話ばかりでまったくと言っていいほどためにならない。第4章など「過密社会が育てた日本の知恵と文化」など日本礼賛で、ほとんど関係ないように思える文章がズラリと並ぶ。まあ記者としてこれまで経験したエピソードくらいか、役に立ちそうなのは。

もっとも、ところどころ織り込まれるトンデモエピソードはウォッチャーを楽しませてくれるだろう。以下、その一部を紹介する。

ムーア博士は原子力推進に転向したが、グリーンピースそのものの反原発の姿勢は変わらないという。「なぜなら、彼らの主張は宗教のようなものだ。捕鯨反対もそうだ」と語った。それは原理主義の一神教の世界の産物だ。世界は多神教が共存、強調する時代に移りつつある。身勝手な一神教の論理を振り回すのは時代遅れだ。

p23

一神教=原理主義かよ。そりゃ原理主義は身勝手で迷惑だけど、一神教が全てそういう性格を持っているわけではないだろ。

 日本の技術援助で外国の火力発電の効率が上がったら、それも日本がCO2を減らしたことに勘定する共同実施やクリーン開発メカニズムもまやかしである。たとえば中国が日本の技術で火力発電所を増やすと、どんなに熱効率のいいものであっても、中国のCO2排出量は増えるのに、日本は旧式の中国の火力発電との排出量の差を減らしたと勘定するのがこの制度だからである。

p40

火力発電所の建設前と後でCO2排出量を比較してどうする。クリーン開発メカニズム有り無しでの比較だろ。

 もっとも好ましい解決方法は、人口が減ることだと思う。

(中略)

 天の配慮によるのだろうか、日本では将来の人口減少が予想されている。すでに2005年から、死んだ人の数が生まれた赤ちゃんの数を上回る、自然減の時代に入った。

 政府も国民もこの傾向に賛成かと思ったら大反対のようだ。少子化が続けば国力は低下する。(中略)人口の減少を気遣う気持ちは理解できる。

 では人口は増えるのがいいか。増え過ぎて、食えない人が大勢発生すると戦争の原因になる。それでいいのか。

p45

この人の頭の中には増えるか減るかの2つしかないのだろうか。なぜ人口増でも超少子化でもない「ゆるやかな少子化」という選択肢が浮かばないのだろうか。

近年、省エネルギーと資源循環型の社会として、江戸時代を礼賛する風潮も生まれた。資源の乏しい日本でも、江戸の時代の暮らしの精神を生かせばなんとかなると思う人が増えた。しかし、この考え方はかなり間違っている。

 日本は資源の乏しい国ではなかった。資源がなくて、国の経済が立ち行くわけがない。佐渡をはじめ日本の各地に金鉱山があった。(後略)

p48

そりゃ資源の意味が違うだろ。資源循環型の資源は物質、原材料としての資源。金鉱山なんかの資源は資産としての資源。

 平均寿命が50年のときには、嫁姑の関係は10年間だった。20歳で嫁に行ったとして、その時姑の平均年齢が40歳。10年すれば姑は平均寿命に達したからである。平均寿命が30年延びた結果、嫁姑の関係も30年延びた。

 昔の嫁姑の関係は、嫁が若いときの10年間だったから我慢ができたという面もある。40年間も同じ家に嫁と姑が同居していたら、昔には考えられなかったようなトラブルも生じる。

p74-75

平均寿命と平均余命の区別もつかないようだ。40歳の人間があと何年生きるかの計算には平均寿命ではなく平均余命を用いなければいけない。でないと、50歳の人間はすぐに死んでしまう計算になってしまう。統計によると、平均寿命が50年のとき(昭和10年)、40歳の平均余命は30年。20歳で嫁に行ったとして、嫁姑の関係は30年。平均寿命が80年のとき(昭和60年)、初婚年齢も遅れているから25歳で嫁に行ったとして、50歳の平均余命=嫁姑の関係は約32年。ほとんど変わっていない。だいたいこの人平均寿命が50年の時代に生きていたはず(1933年生まれ)なのに、どうして40歳の人があと10年しか生きないなんて思っちゃったんだろう?

しかしまあ、よくこんな文章を書く人が前作の『原子力と報道』でエネルギーフォーラム賞特別賞を受賞できるもんだ。

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2006年7月11日 (火)

中西批判の整理

ピアレビューをどの程度信用すべきかにTBが来たし、まだ書き足りない部分もあったので、今回は少し問題を整理し、何を問題にしており、何を問題にしていないのかを明確にしてみよう。

どうも今回の中西氏の言動は、たとえて言うなら「過去冤罪の被害にあった人が、冤罪を主張する犯罪者(実は真犯人)の手記を読んだだけで冤罪だと信じちゃった」という構造に近いであろうと思う(べつに槌田氏が犯罪者であるとか犯罪行為をしていると言っているわけではない、念のため)。

まずは、何を批判していないのかについて語ろう。ピアレビュー制度がときには異端排除という誤った行為を行ってしまうという指摘は、一般論としては正しい。また、中西氏がピアレビューについて何らかの提言を行ったとしても、それはべつに咎め立てするような類のものではないだろう。私は中西氏の一連の発言で信用を落としたと思っているが、だからといって中西氏がピアレビューについて何らかの提言をしたとしても、そのこと自体は構わないと思う。また、その中身についても私は特に否定的ではない。実行するうちに問題が出てくるかもしれないけれど、それに対する批判等はまた今回の話とは別個に議論されるべきだろうと思う。

では何を批判しているかというと、中西氏がピアレビュー制度を正しく運用していないことに尽きる(槌田論関連はさておき)。だいたいピアレビュー制度ってのは、専門的な知識を有しない人でも科学的仮説を評価できるように、その人に成り代わって別の専門家が評価する制度なんだから、程度問題はあれ、レビューアーを信用しないとピアレビューの意味がないのだ。異端論排除に使われるとか、レビューアーが時折過ちを犯すなんて織り込み済みの上で、それでも信用しないといけないのだ。だって、素人がレビューアーの判断が間違っているかどうかなんて判断できるわけないでしょ?たとえ専門家が間違うことがあったとしても、素人が判断するよりはましだからこそピアレビュー制度の価値があるわけでしょ?

実際、ピアレビュー制度を信用するかどうかを恣意的に判断することによってピアレビュー制度のニセ科学排除という機能が失われてしまうことは、今回の中西氏自身の言動がはっきりと証明している。彼女は素人である自分がレビューアーの判断が間違っているかどうか判断できるというカンチガイを犯したのだ。しかも素人なら誰でもできるというのではなく、自分だけには判断できるというカンチガイだ。

ピアレビュー制度の欠点を指摘するのは結構。でもそれをたてにとって「この問題はレビューアーは正しい判断をしている」とか「この問題はレビューアーは間違った判断をしている」とか素人が判断するのは自分の能力を過信した馬鹿の所業だよ。

中西氏がピアレビュー制度の欠点に直面してきたという事実はあるだろう。でも結局はそのシステムから逸脱することなく、きちんと手続きを踏んでここまで来れたんだから、言われているほど致命的な欠点ではないのだろうと思っている。

これまで環境問題、ひいては科学界に多く貢献してきた中西を馬鹿と呼ぶことに多少抵抗はあるけれど、たとえ相手が誰であれ、馬鹿なことを言ったら馬鹿にされても仕方がないと思っている。でないと、これまで斬ってきた馬鹿に対して申し訳がたたない気がするのだ。

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2006年7月10日 (月)

専門病院間で未熟児死亡率に差があるらしいが

子供も生まれたので、情報収集も育児方面に関する話題が多くなってくる。そんな中、毎日新聞にこんな記事が。

未熟児:死亡率に差…専門病院間で0~30% 厚労省調査

 出生体重が1500グラム以下の未熟児「極低出生体重児」の死亡率に、専門病院の間で、0~30%まで差があることが、厚生労働省研究班(分担研究者・楠田聡東京女子医大教授)の調査で分かった。平均死亡率は11%で欧米より低かったが、脳の出血や肺障害を起こす率も差が大きく、病院による治療法の違いで差が出た可能性がある。班は死亡率の低い病院の治療を普及させて、全国的な死亡率低下を目指す。

 研究班は、03年当時に国と都道府県から「総合周産期母子医療センター」の指定を受けていた42施設を調査。03年に治療した極低出生体重児について、治療法など80項目を聞いた。37施設から、同年生まれの極低出生体重児の約26%にあたる、2145人分のデータが集まった。うち1913人が退院し232人(11%)が死亡していた。

 各施設の死亡率を算出し、出生体重が低いと死亡しやすいことを考慮して修正すると、修正後の死亡率は0~30%までばらついた。楠田教授によると、死亡率0は、治療した人数が少ない施設での偶然とみられるが、患者数が多くても、死亡率が高い施設があった。

 肺が硬くなり、退院後も酸素投与が必要となりかねない病気「慢性肺障害」に陥る子の率は施設により0~75%、脳性まひなどにつながる「脳室内出血」を起こす率も0~50%と異なった。

 楠田教授は「専門施設間で、死亡率などがこれほど違うとは驚いた。各施設は国などから補助金を受けており、治療成績を示して向上させるのが義務だ。04、05年のデータも調べ、治療法の標準を作りたい」と話している。【高木昭午】

毎日新聞 2006年7月9日 3時00分

私はべつに専門家ではないのでこれに対して具体的に批判をしたりするつもりはないけれど、一般的に言って死亡率の差はそのまま病院の技量の差を反映しているとは限らないということは確認しておきたい。

例えば、重篤な患者が高次医療機関にされるような事態を想定すれば、それだけで死亡率に差が出てくる。そのような状況で単純に死亡率の低い病院の治療を普及させると、かえって全体的には死亡率が上がってしまう可能性もある。

データをとって統計的に見るという手法はそれなりに有効な場合もあるけれど、その意味をしっかり把握しないと、数字が一人歩きしてしまってかえって不合理な選択をしてしまう可能性もあるので注意したいところだ。

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2006年7月 9日 (日)

第一子誕生

昨日無事に第一子が誕生した。女の子だ。

一昨日破水があって入院。昨日の午前3時頃から定期的な陣痛があり、昼前に出産だった。初産にしては安産だったそうだ。

母親の方は下腹部を痛がっているが、基本的に元気。

赤ちゃんの方は、最初見たときは頭がルチ将軍みたいになっていてちょっと驚き。変形するとは聞いていたがやはり実物を見ると驚く。時間がたつにつれてだんだんふつうの形に戻っているようだ。産まれてすぐだとサルっぽい顔をしているもんだと思っていたけど、なかなか整った顔立ちをしていてかわいい(親バカ)。

赤ちゃんの顔は日に日に変わっていくと言うが、どう変わっていくか楽しみだ。

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2006年7月 6日 (木)

「鏡の法則」涙するのは何%?

最近「鏡の法則」なるものが流行っているそうだ。なんでも、読んだ人の90%が涙するそうだ。誰が測ったんだろう?との疑問があるそうなので、実際に測ってみることに(ヒマ人)。

方法:上のリンク先のトラックバックを上から50件読む

結果:

よかった、泣いた 20件(40%)

中立、評価せず 11件(22%)

ダメダメ 19件(38%)

考察:まあこんなもんか。コメントだとダメダメの方が多そう。結構みんな醒めてるのね。というか、泣かなかった人の大半は引いたんだろうなあ。最初は「誇大広告だね」って言おうかと思ったが、「じゃあ『全米が泣いた』はどうなんだ」って聞かれたらなにも返せないのでやめた。

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2006年7月 5日 (水)

ピアレビューをどの程度信用すべきか

今週の中西準子の雑感を読んで少々驚いた。ピアレビュー制度に一定の評価を与えていたからだ。以前の雑感「原子力発電と温暖化」を読んだ限りでは中西氏はピアレビュー制度に否定的であると思っていたからだ。

以前の雑感では「CO2温暖化説は間違っている」(槌田敦著)をレビューしてこのように書いていた。

最後に、学会誌の問題点に触れている。CO2温暖化説に批判的な論文は定評ある学術誌には掲載されないとして、日本物理学会誌について言及している。

この中の「CO2温暖化説に批判的な論文は定評ある学術誌には掲載されない」ってのは実際は「槌田論文はピアレビューの結果掲載されなかった」ってことだ。そのあたりの事情は槌田本人が文中で説明しており、中西氏もそれを読んでいるはずだ。そして続けてこう書く。

その意味で、学会やあらゆる紙面、テレビ等は両方の意見に対して開くべき時と思っている。特に学会には注意してほしいと思う。多数決で統一見解を出すことが必要な時もあるだろうが、多数派の意見が間違いかもしれぬという思いを常に残した、運営、議論の場の設定がどうしても必要だと思う。

これを読んで私は「ピアレビュー制度には問題があるので、ピアレビューなどせずに公表しろ」と言っているのだと解釈していた。ところが今回の雑感では

例えば、英国のRoyal Societyはそのような広報活動に力を入れていて、ナノ技術が危険という見解をチャールズ皇太子が発表した翌日には、それに対する批判を発表したと聞いている。

Royal Societyのそのような活動はとても良い。しかし、それは学会における多数派意見の発表にすぎない。似非科学に対する問題や、これまでの科学で判断できる問題ならば、多数派の意見が正しい確率は高いと思うが、新しい問題について、多数派の意見が正しい確率はそう高くはないように思う。

と、現行のピアレビュー制度について一定の効果があることを認めている。

つまり中西氏が言っているのはこういうことだったようだ。「ピアレビューによる評価は似非科学に対しては有効だが、そうでない場合もある。槌田説に関してのピアレビューには問題があったのでピアレビューの結果を信用せずに公表しろ」

まあ確かに中西氏の言うように現行のピアレビュー制度は完璧じゃない。槌田説に関してだってその判断が完璧であるという保証はない。それを改善しようという気持ちもわかる。

でもね、その分野のしろうとであるにもかかわらず、自分の判断でピアレビューを信用したりしなかったりっていう態度はありなの?

自分が熟知している分野というのならば、ピアレビューに左右されずに自分で判断するってのはべつに問題にはならないだろう。でも、中西氏が判断したのは、それについてしろうとだと自認する分野の話だ。どうしてしろうとがピアレビューの結果が信用できるかどうか判断できるの?自分ではで正しいかどうか判断できないからこそピアレビュー制度があるんじゃないの?

もし私が中西氏だったらこう判断するだろう。

「確かに槌田説には説得力があるように思える。しかし専門家のピアレビューによると学会誌で公表するに値しない説のようだ。私には納得しがたいが、私は温暖化のメカニズムについて勉強したことがないしろうとである。ピアレビューが間違っている可能性はそれなりに留保しつつ、とりあえずは専門家の言うことを信用しよう」

結局、私と中西氏の違いは自分が熟知していない領域における専門家への信用度にあるようだ。少なくとも私には

素人の自分の判断 > 専門家の判断

という傲慢な振る舞いをすることはできない。

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2006年7月 4日 (火)

槌田敦「CO2温暖化説は間違っている」を読む(4)

ニセ科学としての槌田温暖化人為説否定論

理論に対する具体的な批評は前回で終わりにして、今回はニセ科学批判という見地から槌田論を論じる。

「科学ではないのに科学を標榜しているもの」には疑似科学、ニセ科学、トンデモなどいろいろな呼び方があるのだが、今回は菊池誠氏の使用法に従ってニセ科学を用いることにする。

まずは、ニセ科学(疑似科学)がいったいどのように定義されているのかをみてみよう。

Wikipediaの疑似科学の項では、

疑似科学(ぎじかがく)は英語Pseudoscienceの訳語である。学問学説理論知識、研究等のうち、その主唱者や研究者が科学であると主張したり科学であるように見せかけたりしていながら、科学の要件として広く認められている条件(科学的方法)を十分に満たしていないものを言う(例えば、科学的方法をとっていないため科学雑誌への論文投稿が認められない、そのため査読も経ていないものなど)。これらが、科学であるかのように社会に誤解されるならば、そのことが問題であると言われる。

とされている。また、松田卓也氏によると、

私は現代の正統科学とは、科学的な方法論、科学的な作法、マナーに則って行われるものであると定義します。どういうことでしょうか。それはひとつには発表の方法にあると思います。

 科学者は研究して、一定の成果を得られるとそれを論文に書きます。そして「レフェリー」のある、いわゆる「権威ある学術雑誌」に投稿します。レフェリーは普通は、その分野の権威者や、その問題をよく知っている人から、雑誌の編集者によって選ばれます。匿名のレフェリーは、その論文が、間違っていないか、新しい知見があるか、発表する価値があるか、といった観点から評価します。そして、その論文が、そのまま発表できる、小修正すれば発表できる、発表するためには大きな修正を必要とする、他の雑誌に投稿すべき、発表の価値がない、などの結論を下します。レフェリーの数は一名ないし二名です。二名の場合、両者の意見が一致すればよいのですが、そうでない場合、編集者の要請で第三のレフェリーが任命されることもあります。
 このようなレフェリーの意見は論文の著者に返送されます。そのまま出版とか、小修正の場合は大した問題はないのですが、大修正とか出版の価値なしと認められた場合は、著者とレフェリーの論争になります。編集者が適切な判断を下す場合と、決定に全然タッチしない場合があります。著者はレフェリーの意見に納得できないときは、レフェリーの交代を要求したり、あるいは論文を取り下げて他の雑誌に投稿することもできます。

(中略)

 このようなレフェリー制度をピアーレビューといいます。同僚評価と訳されています。現代科学の方法論、マナーとは、まさにこの同僚評価制度にあるのです。同僚評価制度を通らないで、科学的主張をすると、科学者の間で正統な認知を得られません。疑似科学はこのシステムに乗っていないのです。

となる。どちらにしろ、科学の要件が成り立つための方法論を満たしているかどうか、特に査読(ピアレビュー)制度を経ているかどうかが正統な科学とニセ科学とを分ける判断材料となるであろう。

ではなぜピアレビュー制度が重要なのだろう?それは、第三者が評価し、検証することによって論理的な間違い、データの不備などの誤りが排除されるからだ。一方、一般書はというと、そのようなチェックを受けることはない。専門に詳しくない一般書の想定読者が誤りを見つけるのは難しい。その結果、誤りを含んだ説が世間に広まることになる。

そういった観点から槌田温暖化人為説否定論を評価してみよう。いわゆる槌田説は一般書や学会、Web上での発表はあるものの、これまで一度も査読付きの論文として掲載されたことはない。槌田はこれに対して

CO2温暖化説に批判的な論文は定評ある学術誌には掲載されない

p136

としているが、実際はそうではなく、これまで見てきたような根本的な誤りがあるから掲載されないだけだ。ただ残念なことに中西準子はこれを真に受けちゃったようで、自身のホームページでこれを「学会誌の問題点」としてしまっている。

確かに、既存のパラダイムに合致しない説は論文として掲載されにくいという傾向はある。これは前述の松田氏も指摘している。

 科学者はさまざまなパラダイムのもとで研究をしています。ですから投稿された論文がパラダイム、定説に反する場合には、拒否反応が起きてリジェクトされやすくなります。実際、ノーベル賞を取ったような画期的な論文が拒否された例はいくらでもあります。

しかし、話はそれで終わらない。

 これらの例は定説に反する説ですが、唱えた人たちは、きちんとした科学的訓練を受けた立派な科学者で、しかもその説は、レフェリーのある論文に掲載されて、世界中の科学者の検証を受けています。上記の例は現在でも多くの支持を集めていないので、多分間違いでしょう。しかし私が強調したいことは、これらは異端の科学とよぶべきで、疑似科学ではありません。

つまり、定説に反するけれども科学の作法はしっかり踏まえた異端の科学と、定説に反するだけでなく科学の作法すら守られないニセ科学が存在するということだ。

では、これらを区別する基準というのは存在するのだろうか。おそらくこの2つの境界にはグレーゾーンが存在し、それらをはっきりと分けるのは困難だろう。しかし、典型的な異端の科学とニセ科学を見分けることは不可能ではないはずだ。それを見分けるための傾向としては、例えば以下のようなものが挙げられる。

1.自分を天才だと考えている。

2.仲間たちを例外なく無知な大馬鹿者と考えている。

3.自分は不当にも迫害され差別されていると考えている。

4.もっとも偉大な科学者や、もっとも確立されている理論に攻撃の的を絞りたいという強迫観念がある。

5.複雑な専門用語を使って書く傾向がよく見られ、多くの場合、自分が勝手に創った用語や表現を駆使している。

マーティン・ガードナー「奇妙な論理」より

その他には、既存の説を熟知しているかどうか、またピアレビュー制度などの現在の科学の作法について理解を示しているかどうか、陰謀論を用いているかどうか、あたりだろうか。当然のことだが、既存の説を熟知しなければそれに対抗しうる新説を提出することはできない。既存の説を熟知せずに反論するのは「地球が丸いという説は間違っている。なぜなら、地球が丸いとするならば、地球の裏側にいる人は下に落っこちてしまうはずだからだ」のような主張を行うのに等しい。また、異端の科学の提唱者はピアレビュー制度に悩まされながらもそれを否定することなしに、その制度に則って根気強く挑戦し、最終的には成功している。ニセ科学者は自説が受け入れられない原因を自説の不備には求めず、自説を否定する他人に求めるので、ピアレビュー制度に拒否反応を示し、また自説を否定する動機として陰謀論を持ち出してくる。

では、これらニセ科学(者)によくある傾向に槌田氏および槌田説がどの程度合致するか5段階で評価してみよう。

  • 自分を天才だと考えている。

天才だとは言っていないが、文章の端々にそのようなニュアンスは見られる。4か。

  • 仲間たちを例外なく無知な大馬鹿者と考えている。

仲間たちってのは自分以外の研究者ってことか。間違いなく5。

  • 自分は不当にも迫害され差別されていると考えている。

「全体主義がはびこり、主流に反対を唱えると強烈な反対に遭う。ファシズムだ」と言っている。5。

  • もっとも偉大な科学者や、もっとも確立されている理論に攻撃の的を絞りたいという強迫観念がある。

槌田はCO2温暖化説だけでなく、オゾンホールフロン原因説やゴミのリサイクルなど確立された理論を攻撃している。5。

  • 複雑な専門用語を使って書く傾向がよく見られ、多くの場合、自分が勝手に創った用語や表現を駆使している。

「空冷と水冷の地球エンジン」などというオリジナル用語を使う。ただし頻度は多くないし、まるでデタラメという訳でもないので3。

  • 既存の説を熟知していない

これまで見てきたように全く熟知していない。5。

  • ピアレビュー制度などの現在の科学の作法について理解を示していない

「学問を殺す閲読制度」などと評している。5。

  • 陰謀論を用いている

「温暖化説の仕掛け人は原発業界」と、温暖化で得をするという理由のみから原発業界の陰謀であると根拠のない主張を行っている。5。

以上のように、多くの点で槌田氏の言動はニセ科学者の言動と同じような傾向を示すことが分かる。超能力のように反証不可能性の性質を持つような説ではないが(それゆえすでに反証されまくっている)、かえってそれが正統な科学っぽさを醸し出しているのかもしれない。

結論としては、槌田氏あるいは槌田論はほぼ間違いなくニセ科学(者)に分類して差し支えない。槌田氏本人は自分が異端の科学者であることを自称し、異端が迫害されていると訴え、異端を擁護するよう主張している。科学者の中にはそれに同調する向きもある。でも、槌田論はこれまで見てきたように明らかにニセ科学であり、異端の科学ではない。異端の科学とニセ科学ははっきりと区別すべきだ。

確かに現在の科学のシステムは完璧じゃないし、それを担っている科学者の中には異端を排除するような動きをとる人もいるだろう。そういった点はできるだけ改善すべきだろう。でも、たとえそういった欠点があったとしても、現在の科学のシステムを否定するのは得策ではない。完璧ではなくても、現状で我々がとりうる方法としては最善の手法なのだ。そのシステムがあるからこそ、素人では判別できない科学的仮説の確からしさの順位付けを行うことによって、明らかに間違っている説をふるい落とすことができるのだ。間違って正しい説もふるい落とされることはあるけれど、その割合はそんなに高いものじゃない。高そうに見えるのは、ふるい落とされた説の論者が自分の間違いに気付かずにそう吹聴しているからだ。また仮に間違ってふるい落とされたとしても、ちゃんとした証拠を集めてちゃんとした発表をしていればいつかどこかで誰かが拾ってくれる。現在の科学のシステムを否定することによってニセ科学がはびこることはあっても、異端の科学が報われるってことはほとんどないだろう。

他にも書きたいことはあると言えばあるが、あまり冗長になっても仕方がないので、ひとまずこのくらいで槌田敦「CO2温暖化説は間違っている」を読むシリーズを終わりにしようと思う。必要に応じて小ネタを取り上げるかもしれませんが。

この本が出た当初は正直ここまで関わる価値すらないと無視していたが、環境界の大御所が好意的に取り上げるの見て、社会への影響が無視できなくなるだろうと予測し、一連のレビューを書き上げた。参考になれば幸いだ。

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2006年7月 3日 (月)

槌田敦「CO2温暖化説は間違っている」を読む(3)

槌田説では説明できないCO2のゆくえ

大気中のCO2濃度は海水からの放出で決まる、と主張する槌田説だが、それでは説明できないのが人間活動由来のCO2がいったいどこへ行ってしまったのか、ということだ。

従来の説では人間活動由来のCO2の放出は71億トン、陸域での吸収が19億トン、海水での吸収が19億トン、38億トンが大気中に蓄積するとされている(IPCC第三次報告書)。

これについて槌田は

 気象学者キーリングが最初に大気中のCO2濃度を論じたときから、化石燃料の燃焼で生じたCO2のうち半分が行方不明とされ、その問題について合理的に説明できないままである。

p53-54

と評し、ミッシングシンクの問題をとりあげているが、その問題はすでに解決されているのを知らないようだ。

また、

 これらの数値は発表ごとに変わっていて、CO2の収支はまだよく分かっていない。

p54

とも書いているが、実際の排出量や吸収量が変化するのだから、数値が発表ごとに変わるのはある意味当然の話だ。測定誤差はあるものの、おおまかなCO2の収支はだいたいわかっていると考えた方がよい。

一方槌田説ではどうなるかというと、大気中のCO2濃度は海水からの放出で決まるということだから、大気中に増加している33億トンのCO2は海水由来ということになる。となると、問題となるのは人間活動由来のCO271億トンのゆくえだ。仮に海水に吸収されたとすると、ネットでは海水は吸収することになるので槌田説とは相容れない。残るは陸域での吸収だが、仮に陸域で光合成によって71億トンが吸収されたとすると、その吸収量はIPCCの推定とはだいぶかけ離れている。またCO2が吸収された分のO2が大気中に排出されたことになる。一方、化石燃料や森林伐採等によるCO2の排出も同じく71億トンで、その分のO2が大気から失われた計算になる。光合成によるO2の排出と燃焼によるO2の消費を差し引くとゼロ、つまり大気中のO2濃度は変化しない計算になる。これは観測事実と合わない。そもそも、槌田氏は『「森林などによる吸収の増加」は、森林伐採や焼き畑などの現状に反している(2005,日本物理学会誌投稿原稿)』と陸域での吸収について懐疑的だ。

結局のところ、人間活動由来のCO2がいったいどこへ行ってしまったのか、槌田説では全く説明できない。実際、説明されている文章は見たことがないし、どうも説明を試みるつもりもないように見受けられる。

槌田説を支持する人は是非とも人間活動由来のCO2のゆくえについて説明をして欲しい。

他にもたくさんツッコミどころはあるのだが、こちらで反論がなされているので、科学的な検証はひとまずここまでとしたい。

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