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2006年4月28日 (金)

水田が地球温暖化に及ぼす影響

以前の記事「呼吸で排出される温室効果ガス:亜酸化窒素」で紹介したように、温室効果ガス=二酸化炭素というわけではなく、そのほかにも温室効果をもつ気体が大気中には存在する。亜酸化窒素も温室効果ガスの一種で、二酸化炭素の約300倍の温室効果をもつ。

IPCCは二酸化炭素やその他の温室効果ガスについて、その排出量を見積もるためのガイドラインを作成している。簡単に言うと、これだけの窒素肥料を施用すると○○%の亜酸化窒素が発生する、というような計算式とデータセットを提供している。各国はそのガイドラインを用いて自国からの温室効果ガス排出量を求めるという手順だ。

今回紹介する記事は、ガイドラインで採用されているデータセットを水田に適用すると亜酸化窒素の排出量を過大評価してしまう、という話。

地球温暖化:水田で使う窒素肥料の影響を過大評価

 水田で使われる窒素肥料が原因で発生する亜酸化窒素の量は、温室効果ガスの排出量の計算に使われる国際機関のガイドラインで示された発生量の約4分の1に過ぎなかったことが、農業環境技術研究所(茨城県つくば市)の調査で分かった。「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」は5月に、ガイドラインを改定する見込み。

 亜酸化窒素は、二酸化炭素の約300倍の温室効果があり、地球上の全発生量の24%が農耕地から発生すると推測されている。この研究は、欧米の科学者が中心になって計算していたため、水田に対する考慮がなかった。

 同研究所は、水田からの発生量は、直接外気と触れる畑とは大きく異なると考え、6カ国149カ所の水田でデータを測定。解析の結果、水田から排出される亜酸化窒素の排出係数は従来の1.25%の約4分の1に当たる0.31%だったことが分かった。国内の亜酸化窒素の発生推定量は約10%多く見積もられていたという。

 同研究所企画戦略室の秋山博子主任研究員は「欧米の研究者が多いIPCCでは、日本やアジアの事情が考慮されることはあまりなかった。今後も積極的に研究成果を示していきたい」と話している。【石塚孝志】

毎日新聞 2006年4月26日 東京朝刊

水田と通常の畑では水管理が違い、それが土壌の微生物生態系に大きな影響を及ぼす。通常の畑土壌には酸素が多く存在する一方、水田土壌には酸素は少ない。つまり、畑土壌には好気性生物による生態系が、水田土壌には嫌気性生物による生態系が存在しているということになる。農業由来の亜酸化窒素のほとんどは土壌中に存在する硝化細菌や脱窒細菌などの微生物によって作られていると考えられているから、畑土壌と水田土壌のように劇的に異なる環境では窒素の代謝もまた劇的に異なると考えたほうが妥当だろう。

こういった事情を欧米の専門家が知らなかったわけでは、もちろんない。知ってはいたが、研究には結びつかなかったというのが正しい見方だろう。考えられる理由はいくつかある。一つは、欧米における水田に対する関心の低さ。仮に専門家が関心をもっても、スポンサーである政府や社会が食いつかなければ予算はとれず、研究を行うことはできない。もう一つは、地域的な縄張り争い。べつに縄張りについて確たるルールがあるわけではないが、こういった地道なフィールドワークを要する研究では、アメリカの研究者は中南米に、ヨーロッパの研究者はアフリカに、日本の研究者は東南ー南アジアに地盤を持つことが多い。そのため、米作地域であるアジアに地盤を持っていない欧米の研究者はなかなか入れないといった事情もあるのだろう。それだけに、日本にはアジア地域においてリーダーシップを発揮するよう求められている。

アジアには世界人口の6割ほどが住んでおり、その多くが米を主食としている。人口動態を見る限り、米の役割は現在よりも大きくなっていくだろう。その米作がどのように環境に影響を与えるのだろう。これからもっと研究を進めて欲しい。

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2006年4月21日 (金)

池田清彦「環境問題のウソ」を読む:第1章(6)

第3節:人為現象それとも自然現象

この節では、世界の気温変動が人為的なものなのか、それとも単なる自然現象なのかを論じている。私が読む限り、この節が最悪。

先に述べたGISSの世界の気温の変動データによれば過去百年間に世界の平均気温は〇・五ー〇・七℃上昇した。一応これを信じるとしても、それは巷で言われて言われているようにCO2の人為的排出だけが原因のすべてだとはとても思われない。(中略)地球の平均気温は一丸四〇年から七〇年まで三〇年間で〇・二℃下降したにもかかわらず、CO2の濃度は三一〇ppmから三二五ppmまで急激に増大している。全世界の年間炭素排出量を見ると、一九四〇年ころまではせいぜい一〇億トンだったものが、一九七〇年には四〇億トンに増大している。これだけでも、人為的地球温暖化説はあやしいと私ならば思ってしまう。少なくとも地球の気温にはCO2以外の要因が働いていることは絶対に確かであろう。

p25-27

こういったコンピュータのシミュレーションモデルがデータ整合的にならないのはなぜなのか。より重大な原因を見落としているのではないか。もっとはっきり言えば、CO2濃度の人為的上昇のみを温度上昇の原因とするモデルは間違っているということだ。

p31

次に筆者は太陽活動について取り上げ、

 気象庁が一九八九年に発表したレポートには「地球全域の平均海面水温の長期変動は、太陽黒点数の長期変化とよく対応していること書かれ、過去一二〇年余りの変動グラフが載っている(図8)。これを見ると大腸黒点数が増加した時には水温が上がり、減少した時には水温が下がっていることがよくわかる。CO2の増加が温暖化の主因とする説では説明できなかった一九七〇年頃の低温も、太陽主因説でうまく説明できる。太陽黒点数はこの時期、その前後に比べずっと少なかったのである。

p33-34

と書いている。これらを読むと、筆者が人為的地球温暖化説についてまったく無知であることがよくわかる。要するに、筆者は人為的地球温暖化説がCO2濃度の人為的上昇のみを温度上昇の原因とする説だと誤解しているということだ。これはこのイラストを見てもよくわかる。

P32_1

だがしかし、そのような筆者の理解は明らかに間違っている。たとえば、IPCCの第三次評価報告書では過去の気候変動がCO2濃度等の人為的要因だけでも、太陽活動等の自然的要因だけでも再現が不十分で、両者をともに考慮することによって最もよく再現できると書かれている。ここでは筆者が指摘するようなCO2の増加が温暖化の主因とする説では説明できないとしている1970年頃の低温も再現されている(もちろん再現されているからといって、将来にわたってそのモデルの正しさが証明されるわけではないけれど)。
結局のところ、筆者が想像しているような、CO2のみを温暖化の原因と決めつけているような専門家は筆者の脳内にしか存在しないということなのだ。
現在専門家の間で議論が行われているとすれば、温暖化が人為現象なのか自然現象なのかという単純な議論ではなくて、温暖化には人為現象と自然現象のどちらがどの程度寄与しているのか、という程度問題の議論だろう。

これまでの歴史の中で、ある学説が、その学説を理解していない者による批判によって覆された例を私は知らないし、これからもないであろうと、私は思う。

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2006年4月19日 (水)

家畜ふん尿を適切に処理するには

エチゼンクラゲと中国産野菜の意外な関係」で中国における富栄養化の問題について述べたが、日本だって他人事ではない。

富栄養化の原因としては生活排水や産業排水、農業廃水などが挙げられるが、その中には家畜ふん尿によるものも少なくない。

その問題の解決に一役買うであろうソフトが開発されたとのこと。

ふん尿:牧草地に撒く適正量ソフト開発 酪農学園大など

毎日新聞 2006年4月18日 13時31分
 河川や湖沼の富栄養化をもたらす牛のふん尿対策について、酪農学園大(北海道江別市)や道などは牧場内に撒(ま)くふん尿の適正量を割り出せるソフトウェア「ふん尿利用計画支援ソフト」を開発した。ふん尿は牧草の肥料として利用されているが、散布過多になるケースも多く、環境保全に役立ちそうだ。

 ソフトは(1)牧場の面積(2)土壌区分(3)土壌診断値(4)牛の頭数(5)ふん尿の分析値--などを入力すると、その牧場に合った適正量が示され、まき過ぎを防止できる。また、土壌に不足している栄養素の補てん量、環境に影響を与える可能性のある硝酸やアンモニアなどの環境負荷推定値なども表示される仕組みだ。

 北海道の根室・釧路地域では、乳牛を何百頭も飼育する大規模経営の酪農家が増えており、窒素やアンモニアを大量に含んだふん尿が雪解け時期に河川に流入するケースもみられる。国は04年11月に家畜排泄物管理適正化法を施行し、ふん尿をためる施設の整備を義務付けた。しかし、ふん尿をいつ、どこの牧草地にどれくらい散布するかは、施肥標準や土壌診断など複雑な計算が必要なため、多くの酪農家は自らの経験に頼っているのが実情という。

 ソフト開発に伴い、中標津町の根釧農業試験場などで17日、公開デモンストレーションがあり、酪農家ら約60人が参加した。同農試の三枝俊哉・草地環境科長は「目で分かるソフトだ。まずは酪農家に興味をもってもらうことが重要」と話した。

 ソフトは無料。同大ホームページから申し込むことができる。

【本間浩昭】

記事横の写真を見たら知り合いが写っていてびっくり。

まあそれはそれとして、解説に移ろう。

家畜ふん尿は確かに栄養塩(窒素やリンなど)を含んでいて汚染源となりうるものだが、本来は決して忌み嫌うべきものではない。家畜ふん尿の栄養塩はもともとは餌となる牧草や飼料由来のものなので、ふん尿を牧草地や畑に帰してあげることによって過不足なく、うまい具合に物質が循環することになる。

ところが、1960年代になって、飼料の需給構造が変化した辺りから状況は変化していく。このころから、飼料の輸入が急増し、物質の循環構造のバランスが狂い始めた(リンク先の[統計で見る畜産のすがた]→[輸入]→[飼料の輸入]を参照)。それまで牧草地や畑地から収奪した栄養塩の量と家畜ふん尿として排出された栄養塩の量はほぼ一致していたのに、飼料が輸入されるようになってからは家畜ふん尿として排出された栄養塩の量が相対的に多くなってきたのだ。これを考慮せずに家畜ふん尿を全て牧草地や畑地に還元すると、余分な栄養塩が吸収されずに残ることになる。残った栄養塩は雨水等によって河川や湖沼を汚染する、という構造になっている。
そうならないようにするためには、余分なふん尿を撒かなければよいことになる。その量を計算してくれるのが今回紹介したソフトというわけだ。

このソフトのメリットとして、酪農家の経験に頼らずに適正な散布量を算出できるという点を挙げているが、おそらくこれには裏がある。
実は、酪農家の経験による適正な散布量と行政側が算出する適正な散布量は意味合いが異なる。
酪農家にとっての適正な散布量とは、通常は最も牧草の生育が良くなるような量であるのに対して、行政側にとっての適正な散布量とは、環境負荷と牧草の生育のバランスがとれた量となる。
一般的に、家畜ふん尿の散布量と環境負荷には正の相関がある。また、家畜ふん尿の散布量と牧草の生育の良さの関係は、山型のカーブを描く。つまり、撒けば撒くほど生育が良くなるが、撒きすぎるとかえって生育が悪くなる。
酪農家にとっては、環境負荷を少なくしても大してメリットはないので、牧草の生育が最良となるような(できるだけ多い)散布量を選択する傾向にある。一方、行政側にとっては、環境負荷はかなり問題なので、散布量をできるだけ抑えようとする傾向にある。もちろん、牧草の生育があまりにも悪いのは行政にとってもデメリットが大きいので、その辺りのバランスを考えた上で計算を行うわけだが。
このようなギャップがあるので、散布量についてできるだけ行政側の意図した数値に持って行きたいという考えがあるのではないだろうか。

それはさておき、このソフトが利用され、家畜ふん尿が適切に散布されたとして、注意しなければいけない点がある。
それは、結局散布されないままに終わった家畜ふん尿をどう処理するのか、という点だ。野積みにしてたのでは全く意味がないので、し尿処理や堆肥化等によって環境中へ流出しないような処理を行わなければならない。北海道東部の根室・釧路地域は大規模な酪農が多くて比較的そのような処理が進んでいる地域ではあるが、適切な処理が行われるよう注意しなければならない。

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2006年4月17日 (月)

「論争相手のコメントを全部削除するひとについて」について

+ C amp 4 + の最近の記事から。

アンフェアっぷりからいえば、コメント欄からあたかも最初からいなかったかのように論争相手を消して自分だけ堂々と生き残る、みたいなやり方は、大変見苦しいものである。はじめから論争になっておらず、スパムまがいの行為に困っていたというのであれば話はわかるのだが、真摯に議論を積み重ねておきながら、やっぱお前むかつくから消してやる!(おそらくこれがホンネであろうと推測される)みたいな態度はいかがなものか。

同感である。私も以前経験しているだけに、当事者から見たらそりゃないよね、って思ってしまう。しかもその人、「リンクと批判、大いに結構です」って書いてあったのに。

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2006年4月13日 (木)

マスコミの温暖化報道は偏向しているか

このところ「地球温暖化」等のキーワードでググってみると、ブログや掲示板等で「マスコミの温暖化報道は偏向しており、温暖化が二酸化炭素のせいであることが科学的に証明されているかのように報道されている。だが実際調べてみると、温暖化が二酸化炭素のせいであることが証明されたというには程遠い、単なる仮説に過ぎないことがわかる。マスコミはこれまでのような偏向報道を止めて、もっと多様な考え方を紹介すべきだ」といったような論調に出くわすことがある。

私はこのような主張を読むたびに考え込んでしまう。確かに現状認識としてはほとんど正しいことを言っている。にもかかわらず、この手の主張にはどうしても諸手を挙げて賛成できないのだ。

地球温暖化の最大の要因が二酸化炭素である、という説(以降、温暖化人為説と呼ぶ)は完全に証明されたものである、といった類のものでないことは言わずもがなだろう。しかし、だからといって単なる仮説に過ぎない、というのも言い過ぎだ。全ての科学理論は完全に証明されることはないので、全ての科学理論は仮説である、というのと同じ意味では温暖化人為説は仮説ではあるのだろうけれど。

私は、このような温暖化人為説を単純に仮説なのか、それとも証明されたのかという2分法で考えるのは得策ではないと思う。もっとアナログ的な、確からしさという尺度で考えるべきだと思う。温暖化人為説の確からしさとしては生命宇宙起源説よりは確からしい一方、大陸移動説よりはあやふやだろう。程度表現でいうなら、専門家の多くが正しいと考えている程度の定説、といった辺りだろうか。

だからといって、私は単純にマスコミを「証明されたかのような報道をしている」と批判する気にはなれない。それを言ったら、大陸移動説だって完全に証明されたわけでもないのに証明されたかのような報道をしている、と批判しなければいけなくなるだろう。どんな科学理論にしろ完全に証明されてはいないのだから、上のような批判を無制限に行ったら、どのような理論も批判の対象となってしまう。要するに、そもそも証明されたかのような報道をもって字義通り証明されたと理解すること自体が間違っているのだ。決めつけのような報道があってもそれが将来覆される可能性があることを考慮しつつ受け入れる、というのが正しい受け止め方のはずなんだが、そのような約束事を理解せずに鵜呑みにしてしまうと騙された気分になってしまうのだろう。

ここで終わると、「問題の程度が違うだろう」という反論が来そうなので補足しておこう。確かに、上で書いたように温暖化人為説の確からしさはそれほど高いものではない。決めつけのような報道が許されるとはいっても、あまりにも確からしさのレベルが低いものまで許してしまうとかえって混乱を助長させてしまうだろう。それを防ぐという意味では、あやふやな理論を決めつけで報道すべきではない、という批判はそれなりに意味のある行為だ。

ただし、そのような批判は、批判する者が理論について、その確からしさのレベルを十分理解してはじめて意味を持つということを理解すべきだ。その理論について精通していない者が理論の確からしさについて言及できようはずがないことは言うまでもなかろう。

例えば、アメリカ教育界における進化論と創造論の問題を取り上げてみよう。現代科学では進化論はかなり確からしいとされている一方、神が一日にして全ての生物種を造ったという創造論は科学的には間違っているとされている。生物進化について正しい理解をしている者ならば、「進化論について証明されたかのような教育をしているのは偏向教育であり、創造論も教科書に取り上げるべきだ」というような主張は決して行わないだろう。そのような馬鹿げた主張をするのは決まってその理論を理解していない者だ。

進化論と創造論のような、真偽がかなりはっきりしている理論に比べると、温暖化人為説に関する理論はもっと混沌としている。温暖化人為説は進化論ほど確からしくはないし、それを否定するような理論も温暖化太陽説のように考慮に値するものから、二酸化炭素自然起源説のような取るに足らないものまで様々だ。そういう意味では、決めつけのような報道への批判は進化論と創造論の問題と比べるとそれなりに意義がある可能性はあるだろう。ただし、それは上でも書いたように、温暖化問題について正しく理解している者が行うべきことであって、理解が不十分な者が行うべきことではあるまい。

・・・とは言うものの、マスコミの中にも偏向報道だと思わざるをえない場合があって、それが混乱を生んでいるというのは否定できないのだけれど。

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2006年4月 7日 (金)

池田清彦「環境問題のウソ」を読む:第1章(5)

やれやれ、やっとパソコンが復旧した。結構時間がかかってしまった。まあデータの消失がなかったのは不幸中の幸いか。ではひき続き「環境問題のウソ」を読む、の続き。

第2節:温暖化は昔もあった

この節では、千年から数百万年のオーダーで過去の気温を紐解き、昔も暖かかった時期もあるので、現在温暖化が進行しているからといって、その原因が即二酸化炭素であるとは言えない、と主張している。

この節はツッコミどころが少ないので、さらっといこう。

ホッケースティック問題

まずは千年単位の気候変動を論じている。要はホッケースティック問題というやつだ。この問題についてはこちらがよくまとまっているので、詳しく知りたい方は参照されたい。簡単に説明すると、IPCCで採用された年輪の分析による千年単位の気温の変動のデータは実情を反映していないのではないか、という問題だ。さらには元データが同じでも結果が違ってくるという問題もある。この問題については現在も論争が続けられている。個人的には年輪による分析は未だ発展途上と考えた方がよいように思う。

次に出てくるのは珊瑚礁の分析による水温の変動のデータだ。

この方法によるニューカレドニアの珊瑚礁の一七世紀からの分析結果を見ると陸上の気温より変動は少ないようだし、変動パターンも少し違う。(図4)。一九五〇~六〇年頃が水温が一番高くて、陸上のパタンとは一致しない。海中と陸上では温度変動のパタンが違うとすれば、地球表面の温度を決める要因は複雑で、CO2の増大イコール地球規模の温暖化といった単純な話にはならない、と考えた方が合理的だ。

p19-20

海中と陸上の温度のパタンとは一致しない、と単純に決めつけてしまっていいのだろうか。珊瑚のデータは1点であるのに対して、年輪や温度計のデータは平均値だ。以前も見たように、平均で見ると気温は上昇しているが、ここのデータを見ると必ずしもそうではなく、結構ばらついている。ということは、海水の温度だってばらついていたっておかしくない。比較するなら全球の気温と海水温、あるいはその地点での気温と海水温を比較しなければいけないだろう。ある地点の海水温と全球の気温を比較しても大して有益な情報は得られないだろう。

その次はさらに昔の気温の変動について紹介している。これについては特になし。

(4/12追記)

気象庁の「海洋の健康診断表」のページで海面水温の長期変化傾向(全球平均)を見ることができる。これを見る限りでは海面水温と陸上の気温との差はそれほどないように思える。

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