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2006年3月28日 (火)

ハードディスクがクラッシュした件

ハードディスクを予期せぬクラッシュから保護するためにNorton System Worksをインストールしたら、ハードディスクの予期せぬクラッシュに見舞われたhechikoです。

マスターブートレコードが複数存在するPCにはGoBack(HD復元ソフト)は使えないのはわかってはいたが、デフォルトでインストールされるとは予想外だった。今まで別メニューでのインストールだったのに。

確かにマニュアルには書いてあるけど、ちょっと不親切なんじゃないの?シマンテックさん。インストールする際に確認するようメニューを出すくらいしてもいいと思うけど。

まあ、肝心のデータを外付けのハードディスクに入れておいたのは不幸中の幸いだったようだ。

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2006年3月22日 (水)

王ジャパンの決勝トーナメント進出を予言したタロット占い師

WBCで王監督率いる日本は見事キューバを下し、世界一に輝いた。日本のミスから始まった終盤のキューバの追い上げにはヒヤヒヤものだったが、それでもなんとか勝利を勝ち取ることができた。本当におめでとうと言いたい。
そんな王ジャパンだが、二次予選ではかなり苦しい戦いを強いられてきた。アメリカ戦でのミスジャッジによる敗戦、また韓国戦でも敗戦・・・1勝2敗でも決勝トーナメントに出場できたのは奇跡と言っても過言ではないだろう。
だが、それを見事予言したタロット占い師がいるのだ。
その人物の名は、林葉直子。
そう、女流棋士として活躍するも、スキャンダルで世間を騒がせ、そして引退していった元女流棋士の林葉直子だ。

女流棋士から転身!! 占い師の林葉直子 王「米国いける」

タロットでWBC日本代表占う

元女流棋士の林葉直子(38)が、タロット占い師として華麗な転身を遂げ、3日から
開幕するWBC日本代表ナインの運勢などをタロットで占った。
チームを率いる王貞治監督は背番号、生年月日とも試合期間中の勝負運は
最高潮で、「油断をしないで、王監督がバランスを考えて戦えば、決勝トーナメント
出場は確実!!」と断言。王ジャパンが”決戦の地”アメリカへ駒を進めるのは、
すでに運命で定められている?

「コンペイトーがいいかも」

中学3年で女流王将・女流名人になり、女流王将連続10期など輝かしいタイトルを
持つ林葉。中原誠永世十段との不倫騒動もあったが、現在は日本将棋連盟の
米永邦雄会長宅に内弟子に入ったころから始めたタロット占いに本腰をいれ、
占い師として活躍している。

今回は日本代表選手の背番号などを手掛かりに占った。「野球はずぶの素人」
という林葉は王貞治監督に注目。「夢を追いかけて生きる星のカード。調和を考え
ながら、星が星条旗の国(アメリカ)を目指すのがいいでしょう。星ということで、
コンペイトーなんか食べるといいかも」とした。

全体では「思ったほど調子はよくないかも」としつつも、それを補うのが王監督の
運で、「油断は禁物ですが、疲れている選手を監督が気づいてバランスを取れば、
アメリカにいける」とした。

中日スポーツ第18635号5版18面より(2006/3/2)

調べたところ、林葉直子は引退した後カレー屋を開店し、片手間としてタロット占いをするも、それが人気を博し、カレー屋を閉店、タロット占いを本業として生活しているようだ。
未確認情報だが、さらに各試合ごとの勝敗まで当てているらしい。
でも、予言が当たった、といっても決勝トーナメント出場でしょ?その程度なら半々で当たるし、各試合ごとの勝敗を当てたとしても、せいぜい2の6乗=64分の1(記事では決勝トーナメント進出=アメリカへ行くとなっているが、実際はそうではない。アメリカへ行くだけなら2の3乗=8分の1だ。)の確率で当てることが出来る。星の数ほどいる占い師の中でたまたま当たったのが林葉直子ってだけじゃないの?
また、外れたときの対策も抜かりがない。「王監督がバランスを考えて戦えば、決勝トーナメント 出場は確実!!」って、もし出場出来なかったら「バランスを欠いていましたね」とかいって終わりですか、そうですか。

しかしなんだ、林葉直子がこんな形で落ちぶれている華麗な転身を遂げているとは知らなかった。
また、氏は林葉直子の「お悩み晴らします」。 : 問題はタロット占いで解決!というサイトを開設している。
どうも目がいっちゃってると感じるのは私だけだろうか。

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2006年3月13日 (月)

池田清彦「環境問題のウソ」を読む:第1章(4)

今回はさし絵に対するツッコミ。

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p13

都市部に観測地点が多いからといって平均気温が必ずしも高めに出るとは限らない。ヒートアイランド現象などによる影響は補正してある。その補正が必ずしも正しいとは限らないが、平均気温が高めになるような補正であるとは限らない。田舎や海の観測地が少ないってのはごもっともだが、そもそも地球の平均気温を推定するために気温の観測をしていたわけではないので致し方ないところ。細かいところだと、CO2濃度はどこでも同じではない。昼間の森林では低いし、都市部では若干高くなる。CO2の2は下付き。

2

p14

衛星は空間的なばらつきは少ないが、時間的な変動があり得る。どちらが正確かは現時点では微妙なところだと思う。

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池田清彦「環境問題のウソ」を読む:第1章(3)

GISSの平均気温のデータの算出方法への疑問

今度はGISSの平均気温のデータの算出方法に疑問を呈する。

GISSの平均気温は世界各地六三〇〇ヵ所で測定した気温の平均である。先に記したように、この中に都市が多ければ、都市のローカル・ウオーミングの温度上昇が反映され平均気温は上昇する。CO2の濃度は都市でも田舎でもほとんど同じだから、もしCO2の濃度と気温の関係だけを調べたいと思えば、田舎の気温を集めてそれらの平均値を採用すべきであろう。GISSは、このような批判を考慮して、都市の気温は都市化を考えて補正してあるとのことだが、都市の気温はそもそもデータから外す方が、グローバル・ウォーミングが起きているかどうかを検証するには有効であろう。

p13-14

要するに、GISSの平均気温のデータは都市の気温によって大きく影響を受けているので信用できない、ということだろう。確かに補正したといっても、それがどの程度正確なのか、その点について疑問を持つことはおかしなことではない。しかし、著者は単に疑問を呈するに留まらず、都市の気温はデータから外すべきだ、という主張をしている。

都市の気温を外すべきかどうか、その判断は都市の気温の補正の正確さに依存する。もし補正が不正確なら、都市の気温を外した方が平均気温は正確さを増すだろう。一方、補正が正確なら、都市の気温を含めた方がデータの点数が多くなり、平均気温は正確さを増すだろう。つまり、都市の気温を外すかどうかを判断するためには補正の正確さを判断するための専門的な知識が必要になる、ということだ。私は著者がそこまでの知識を有しているかどうか少々疑問に思う。

また、補正は必ずしも正確ではなく、実際とはずれている可能性がある、ということは正しいが、それが必ずしも著者が危惧する(期待する?)方向にずれているとは限らない。たとえば、東京の気温について実際は2.5℃下方に補正すべきところを3℃補正していたとしたら、その分GISSの平均気温は実情よりも下がって見積もられることになる。つまり、都市の気温をデータから外すことによって、GISSの平均気温は現在の見積もりよりも上がってしまうという、著者の意図とは逆方向の事態も起こりうるわけだが、果たして著者はその結果をも受け入れるのだろうか。なんだか今度は「GISSの平均気温が下がるように都市の気温の補正をしてデータに加えるべきだ」とか言いそうで怖いんだが、それは杞憂だろうか。

また、測定地点と頻度の偏りを批判してこのように述べる。

それに測定地点はアメリカとヨーロッパに偏り、海の上にはほとんどないのだから、GISSのデータから、地球の真の平均気温を推定するのは、そもそも暴論なのである。

p14

海の上にはほとんどないのだからそれほど正確ではないのではないか、というのならその通りなのだろうが、暴論というからには代替可能な推定法がある、というのだろうか。もしあるのならそれを利用すればいいのだろうが、ない場合は最もいい方法を使うしかあるまい。筆者はその代替法として衛星による測定を引き合いに出す。しかしながら、衛星による測定には問題がある、と筆者自身が書いておきながら、地上観測のみを貶めるというのはどういう理由によるものだろうか。さらにいうなら、衛星のデータは1980年ころ以降しかなく、それ以前の代替しうるデータはないのだ。そのような状況で暴論と批判したところで現状が改善されるわけではない。

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2006年3月10日 (金)

池田清彦「環境問題のウソ」を読む:第1章(2)

第1節:地球温暖化は本当なのか

この節では、地球の全球的な気温の測定法に対して方法論的に危ういものであるとし、「それほど信用ものではなさそうなのは確かであろう」としている。

では、最初から読んでみよう。

都合のいいデータの取捨選択

最初はグローバル・ウォーミングとローカル・ウォーミングの話。

東京に住んでいると何だか年々暑くなっている気は確かにする。(中略)でもそれは、今流行りのグローバル・ウォーーミング(地球規模の温暖化)じゃなくて、ローカル・ウォーミング(局地的な温暖化)じゃなかろうか。

p8-9

と、暑くなっている実感はあるが、それは単にローカルな話なんじゃないか、という疑問を呈している。それは9割方その通り。そもそも地球温暖化しているとは言っても、たかだか100年で1度足らずの話。実感として簡単にわかる、という性質のものではない。

東京の気温を見るとここ百年ほどで三℃上昇したことがわかる。一方、静岡県の網代や伊豆諸島の三宅島では、一九四〇年頃から一九九〇年頃まで気温はほとんど変わらない。都市の気温は確かに上昇しているかもしれないが、田舎では上昇していないとなると、都市の温暖化はコンクリート・ジャングルや冷暖房などによる、いわゆるヒートアイランド現象で、地球規模の温暖化ではないのかもしれない。グリーンランド、アラスカ、昭和基地やアムンゼン・スコット基地(南極)などの気温変化のデータも、一九四〇年頃から(南極では一丸六〇年頃から、それ以前のデータはない)現在に至るまで、これらの地域の温度はほとんど上昇も下降もせずに椎移していることを示している。南半球の田舎、たとえばチリのイースター島や南ア共和国のカルビニアではむしろ気温は下がり気味だ。

p9-11

この論法はちょっとひどい。なにがひどいかというと、数多くある田舎の気温データのうち、気温が変わらないか、逆に低下しているものを著者が都合良く選択してあたかも田舎では気温が上昇していないことを印象づけている点だ。実際のデータはGISTEMPから見ることができる。確かに網代三宅島では気温の長期的な変動は見られないが、河口湖八丈島ではだいぶ気温が上昇しているように見える。そんなやり方が許されるなら、誰でも簡単に、自分の都合のいいように(実情とは異なる)結論を示すことが出来てしまうだろう。河口湖八丈島のデータを提示して、やはり田舎でも気温は上昇している、とかね。そういったごまかしを許さないために恣意的なデータ選択は許さないというのは科学の基本なんだが、著者はそのあたりは理解できないのだろうか。それとも、知っててやってる?

過去のデータからの未来予測

次は全球データを引き合いに出してこう主張する。

このグラフを信じれば、僕かに平均気温は上昇しているように見える。しかし、コンスタントに上昇しているわけではなく、一丸六〇年代から七〇年頃まで、気温は前後に比べてかなり低かったのである。だから、このまま上昇し続けると考えるよりも、むしろ再び下降に転じると考える方が合理的だ。数年間、平均株価が上昇し続けても、そのまま永遠に株価が上がり続けると考えるバカはいない。

p11-12

本当に再び下降に転じると考える方が合理的なんだろうか。過去のデータのみから未来を予測するのはそう簡単ではないように思える。周期的な変動があり、かつそれによる影響が支配的であってはじめて予測が成り立つのではないだろうか。私は「過去の気温変動のみからでは今後どのように気温が変動するかはわからない」と考える方が合理的なように思える。また、筆者の言いたいことを株価でたとえるのは不適切だろう。確かに平均株価はそのまま永遠に上がり続けることはないだろう。しかし、平均株価は上昇と下降を繰り返しながら長期的には上昇を続けている。将来も長期的には上昇を続けると考えてもそんなにおかしくはないだろうし、平均気温もこのような動きをしないとは限らない。

次は過去の気候を引き合いに出し、

地球の平均気温が下降気味の時は、このままではやがて氷阿期になるという話が流行り、上昇気味の時は、やがて南極の氷が融けて大変なことになるという話が流行る。

p12

と気象学者を揶揄する。これについてはこちらの書評が詳しい。

つづく

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2006年3月 9日 (木)

池田清彦「環境問題のウソ」を読む:第1章(1)

今回からは各章ごとに読んでいくことにする。

第1章 地球温暖化問題のウソとホント

この章では地球温暖化問題への疑問をぶつけている。以下、簡単にまとめる。

まず「地球温暖化は本当なのか」では、地球の全球的な気温の測定法に対して方法論的に危ういものであるとし、「それほど信用ものではなさそうなのは確かであろう」としている。これは旧hechikoのブログ地球温暖化理論とそれへの批判の論理的構図の1-1.「地球の平均地上気温は,20世紀に約0.6℃上昇した。」への批判に分類できる。

次の「温暖化は昔もあった」では、千年から数百万年のオーダーで過去の気温を紐解き、昔も暖かかった時期もあるので、現在温暖化が進行しているからといって、その原因が即二酸化炭素であるとは言えない、と主張している。この中には地球温暖化理論とそれへの批判の論理的構図1-2.「20世紀における気温の上昇は,過去1000年のどの世紀よりも大きかった。」への疑問が含まれている。

「人為現象それとも自然現象」では、CO2濃度と気温に相関がなく、気温の変動にはCO2以外の要因が関与していることを示している。そして気温の変動は太陽の活動によって大きく影響されるとしている。この主張は地球温暖化理論とそれへの批判の論理的構図2-2.「自然起源の因子は,過去100年間では放射強制力にあまり影響していない。」への批判に分類できる。

「温暖化で何が起こるか」では、地球温暖化が地球環境、あるいは人間社会にどのような影響を及ぼすのかを、海水面上昇、異常気象、健康被害、農業という具体例を挙げて、一般に広まっているイメージと最新の科学的な予測にギャップがあることを説明している。これらは地球温暖化理論とそれへの批判の論理的構図4.温暖化は悪影響を及ぼす(影響予測)への批判に分類される。

最後の「CO2削減政策のデメリット」では、CO2削減シナリオが実現したとしても百年後の気温上昇をたった6年遅らせるだけで、コスト高の割には割に合わないものであると主張する。この主張は地球温暖化理論とそれへの批判の論理的構図5-1.「温室効果ガス排出を抑制することで影響を緩和することができる。」への批判に分類できる。

これらを簡潔にまとめると、「温暖化しているかどうかはよくわからない。昔も暖かかった時期はあるので現在の温暖化がCO2濃度の上昇によるものかどうかは不明。実際、太陽活動によって温暖化が起こっているように見える。温暖化による悪影響は思ったほどじゃないし、CO2を今すぐ削減してもコストがかかるだけで温暖化防止にはほとんどならない。だからCO2削減なんて行うべきじゃない。」といった感じか。こうやって書いてみると実にオーソドックスな批判が並べられている感じだ。

とりあえず、今日はここまで。次回から細かく見ていくことにする。

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2006年3月 7日 (火)

安全性とリサイクルーPSE問題からー

実は私もつい最近までこんな法律の存在を知らなかった。

電気用品安全法4月本格施行 中古家電市場に困惑広がる

 電気製品の安全確保をメーカーに義務づける電気用品安全法が4月1日に本格施行(猶予措置の期限切れ)されるのに伴い、安全を証明する「PSE」マークが付いていない中古家電製品は半数以上が販売できなくなる。仙台市内のリサイクル店ではこれらの商品の買い取りをやめており、知らずに売りに来た人が困惑している。店側も在庫を売り切ろうと、安売りを始めた。

 PSEマークの対象は450品目。このうちテレビ、オーディオ、楽器など259品目は4月から、マークがないと販売できなくなる。PSEマークの登場は2001年4月で、同年3月以前に製造された機種にはマークがない。
 宮城野区榴岡のハードオフ仙台駅東口店では2月11日から、PSEマークがない中古家電の買い取りをやめた。在庫を今月中に売り切ろうと、アンプや楽器アダプターを1―5割引きで販売中だ。

 「店にある中古家電のうち3割はPSEマークがない」(小林健治店長)といい、売れ残ればごみとして廃棄するしかなくなりそうだ。
 「リサイクルを推進してきた国が、ごみを生み出す法律をつくるなんておかしな話だ。閉店した同業者もいる」と話すのは、宮城野区銀杏町のリサイクル店「イガラシ」の五十嵐治さん。春先には、仙台を離れる学生や単身赴任者が中古家電を売りに来るが、今年は断らざるを得ないケースが多い。「PSEについて知っている人は1割にも満たない」といい、客の間にも困惑が広がっている。

 影響はリサイクル店以外にも及んでいる。青葉区北目町のオーディオ店「仙台のだや」は、新品の高価なアンプやスピーカーを購入する客には、今使っている機器の下取りに応じてきたが、買い取れなくなった。農機具も規制対象となるため、中古品を売れなくなる農家も出そうだ。

 引き続き認められるレンタルや輸出に活路を見いだす業者もいるが、小規模店ではそれも難しい。
 経済産業省製品安全課は「19万枚のパンフレットを配るなど周知に努めてきたが、問い合わせが殺到している。PR不足だったのかもしれないが、猶予期間延長は考えていない」と話している。

[電気用品安全法]電気製品の安全確保をメーカーや輸入業者に義務づける法律。電気用品取締法の改正に合わせて基準を厳しくし、2001年4月に施行された。メーカー側が商品を検査した上でPSEマークを表示する。感電などを防ぐためコンセントやコードなどは第三者の機関が検査する。法施行から5年間は猶予されてきたが、テレビ、冷蔵庫、オーディオなど259品目は3月末で猶予期間が終わる。11年までにPSE対象450品目すべてが販売禁止になる。輸出や個人間の売買は規制対象外。

(河北新報) - 2006年3月4日14時39分更新

簡単に要約すると、電気用品による危険及び障害の発生を防止するために、安全性が確認されたもの以外の電気製品は売ってはいけません、ということだ。政府による概要の説明はこちら

今回問題になっているのはこの法律そのものではなく、この法律が制限している「販売の制限」(法第27条)の範囲がこれまでPSEの概念が存在しなかった時代の中古品の販売にまで及んでいることだ。

もちろん、そういった中古品が一律に販売できなくなるわけではなく、一定の検査をすれば販売が可能となる。しかしその検査費用は、中古家電販売業の多くを占める中小企業にとっても、また販売されるはずの中古品の販売価格に占める割合からみても決して安いものではない。また検査自体が電気製品の負荷となり、故障する可能性もゼロではなく、その点からも損失が見込まれている。

この法律に対する中古家電販売業者の反対の理由は「自社の保有する資産の価値の減少」や「国が推進するリサイクル社会政策との矛盾」というもの。

さて、ここまでが解説。ここから先はこの問題についての私自身の考え。

まず、この法律自体の理念は理解できる。この法律が出来た背景についてはこちらを参照のこと。

しかし、業者側が反対するのはともかくとして、消費者側からもこれほどの反対意見があるというのは少々予想外だった。さて、この中でどの程度の人が中古品を使用することによる事故のリスクを考慮していたのだろうか。

「ものを大事にしよう」という考え方はもっともなものだ。しかし、「安全なものを使おう」という考え方も同様にもっともなものだ。そして、大抵の場合両者は相反する。ものを大事にしようとして古いものを使えば、一般的には新しいものよりも危険度が高くなる。逆に、安全性を重視して新しいものを求めればものを大事にする思想に逆行することになる。こういった関係にあるものをトレードオフの関係という。環境問題にはほとんど常にこのトレードオフの関係がつきまとってくることになる。安全性と環境負荷、あるいは快適性と環境負荷の関係といったものがそうだ。この関係を頭に入れて考えてみると、「国が推進するリサイクル社会政策と矛盾している」という批判は必ずしも正しくないことがわかるだろう。安全性や快適性と環境負荷はどちらも大切である以上、どちらかのみを考慮した政策を推進している、という現状の理解そのものが誤りなのだ。実際はそんなに偏った政策を推進しているわけではなく、両者のバランスを保ちながら、快適性を少しだけ削って環境負荷を減らし、また今度は環境負荷を少しだけ増やして安全性を高め、といった少しずつ変えていくやり方をしているのだ。

ただし、これは政府の政策が間違っていないということを示しているわけではない。バランスを取っているとはいえ、それが現実的に見て本当にバランスが取れているという保証はない。私自身、この法律には多少の違和感を持っている。だからこそ、「リサイクルか安全性か」という極端な思考を止めて、どの程度の施策が現代社会に最も受け入れられるか、という思考をして欲しいと思う。

そのような思考を導入しない限り、見直さなければ「なぜ昔のものを大切にしないのだ」という批判が、また見直した結果事故でも起きようものなら、「なぜあんな危険な製品を規制もなしに野放しにしていたのだ」という批判が起きるのではなかろうか。このようなバランス思考を欠いた批判は官僚叩きにはもってこいだが、それは社会のためにはならないはずだ。

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2006年3月 6日 (月)

池田清彦「環境問題のウソ」を読む(2)

なんでもかんでも「お上の陰謀」

この本を通して書かれているのは「環境問題はでっち上げが多く含まれていて、それには役人や役人とつるんで儲けている人たちの思惑が見え隠れしている」というものだ。

一言で言うなら、お上の陰謀、というわけだ。

実例を挙げよう。

第一章 p.50

温暖化抑制というほとんど実効性のない政策のために、日本だけで毎年一兆円も二兆円もドブに捨てられたのでは国民はかなわない。それで食ってる一部省庁の役人や環境関連の企業はうれしいかもしれないけどね。

第二章 p.84

ダイオキシン法が施行されて得をするのはまずハイテクの焼却炉を作るメーカーであり、ダイオキシンを分析する業者であり、監督官庁の役人だろう。だからこういった人たちがグルになって、ダイオキシン法を作りたいと思ったとしても不思議はない。

第三章 p.121

ブラックバスが食用魚として市場性があることになれば、わざわざ税金を使って駆除しなくとも、、タダで捕ってくれる人が現れることになる。ブラックバス駆除派の人々にとってもそれはとってもいいことだと僕は思うんだけど、実はとっても悪いことらしい。なぜって、ブラックバスを駆除して税金を使おうという利権が消えちまうものね。

第四章 p.135

環境省は環境を守るふりをする役所であって、環境を守る役所でないってことはよく覚えておこうね。

確かに著者の指摘するとおり、こういった環境問題には官庁の利権が絡むというのはおそらく一面の真実ではあるだろう。しかし、官庁がそういった利益確保を主目的として動いている、というのは根拠のない陰謀論に近い。

どうして著者は、環境問題を必要以上に問題だと主張する人たちは利権が絡むからそう騒ぎ立てているだけなのだ、という推測だけして、環境問題を必要以上に問題ないと主張する人たちは利権が絡むからそう騒ぎ立てているだけなのだ、という主張をしないのだろう?もし環境問題を利権が絡んでいるだけだとするならば、大変じゃない大変じゃないと騒ぎ立てている人たちの中には、将来を心配しているまじめな人たちもいるんだろうけれど、根が不真面目で疑り深い僕は、環境問題って実はやっかいな問題で、これで損をする人たちが大変じゃない大変じゃないと騒いでいるんじゃないかと勘ぐっているわけです、などと言ってみたりもできてしまう。

私が思うに、環境問題を論じる人は、楽観論者にしろ悲観論者にしろ行動規範は次の3タイプに分けることが出来ると思う。

1.事実を元に、社会のための主張を行うタイプ。新しい事実が判明する度に結論を修正する。

2.事実関係を重視せず、自己の利益のための主張を行うタイプ。始めに結論があり、それを変更することはない。またそのためには事実をねじ曲げることも厭わない。

3.タイプ1あるいはタイプ2の人に振り回されるタイプ

著者は少しタイプ2の人間を強調しすぎているのではないだろうか。実際は楽観論者にしろ悲観論者にしろタイプ2の人間はそれほど多くはないと感じている。

ちなみに著者自身は、少なくとも専門外の地球温暖化、ダイオキシン問題についてはタイプ3に近いだろう。後半の生態系の問題辺りだと、タイプ1と2が半々程度か。ネタ本の著者である渡辺正や伊藤公紀なんかはタイプ1に近い。私自身はタイプ1でありたいと思っている。

つづく

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なにをやってもダメなときはダメ

今日はいちご園で昼食代わりにイチゴをたらふく食べ、その後に温泉に入るために外出。まずは、梅を見に行くために筑波山へ。だが、直前の道路がかなり渋滞していた。どうやら駐車場へ入れないらしい。当の梅は3分咲き程度とのこと。桜と違って梅は満開でないとかなりショボいので、梅の観賞はあきらめて、真の目的地のいちご園へ。だが、いちご園に行ってみると、「今日はイチゴが育ってないのでお休み」とのこと。そこは数件並んでいるところだったので、隣へ行ってみると、やはりダメ。どうやら土曜日にかなりの人数が来て食べ尽くしてしまったそうだ。そんなことってあるんだねえ。仕方がないのでお昼ご飯は後にして温泉へ。露天風呂から見える田園風景はなかなか気持ちがよかった。昼ご飯はイチゴのリベンジを果たすため、以前行ってなかなか良かったところへ行くことにする。しかしながら、どこにあるかも、どんな名前だったかも忘れており、30分ほど車でうろうろ。ようやく見つけたと思ったら、ドアに「本店は2月24日をもって営業を終了させて・・・」の張り紙。今日はトコトンついていないようだ。まあ、今晩は途中の農産物直売所で買ったウドとタラの芽の天ぷらがなかなかおいしかったので良しとするか。

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