池田清彦「環境問題のウソ」を読む:第1章(2)
第1節:地球温暖化は本当なのか
この節では、地球の全球的な気温の測定法に対して方法論的に危ういものであるとし、「それほど信用ものではなさそうなのは確かであろう」としている。
では、最初から読んでみよう。
都合のいいデータの取捨選択
最初はグローバル・ウォーミングとローカル・ウォーミングの話。
東京に住んでいると何だか年々暑くなっている気は確かにする。(中略)でもそれは、今流行りのグローバル・ウォーーミング(地球規模の温暖化)じゃなくて、ローカル・ウォーミング(局地的な温暖化)じゃなかろうか。
p8-9
と、暑くなっている実感はあるが、それは単にローカルな話なんじゃないか、という疑問を呈している。それは9割方その通り。そもそも地球温暖化しているとは言っても、たかだか100年で1度足らずの話。実感として簡単にわかる、という性質のものではない。
東京の気温を見るとここ百年ほどで三℃上昇したことがわかる。一方、静岡県の網代や伊豆諸島の三宅島では、一九四〇年頃から一九九〇年頃まで気温はほとんど変わらない。都市の気温は確かに上昇しているかもしれないが、田舎では上昇していないとなると、都市の温暖化はコンクリート・ジャングルや冷暖房などによる、いわゆるヒートアイランド現象で、地球規模の温暖化ではないのかもしれない。グリーンランド、アラスカ、昭和基地やアムンゼン・スコット基地(南極)などの気温変化のデータも、一九四〇年頃から(南極では一丸六〇年頃から、それ以前のデータはない)現在に至るまで、これらの地域の温度はほとんど上昇も下降もせずに椎移していることを示している。南半球の田舎、たとえばチリのイースター島や南ア共和国のカルビニアではむしろ気温は下がり気味だ。
p9-11
この論法はちょっとひどい。なにがひどいかというと、数多くある田舎の気温データのうち、気温が変わらないか、逆に低下しているものを著者が都合良く選択してあたかも田舎では気温が上昇していないことを印象づけている点だ。実際のデータはGISTEMPから見ることができる。確かに網代や三宅島では気温の長期的な変動は見られないが、河口湖や八丈島ではだいぶ気温が上昇しているように見える。そんなやり方が許されるなら、誰でも簡単に、自分の都合のいいように(実情とは異なる)結論を示すことが出来てしまうだろう。河口湖や八丈島のデータを提示して、やはり田舎でも気温は上昇している、とかね。そういったごまかしを許さないために恣意的なデータ選択は許さないというのは科学の基本なんだが、著者はそのあたりは理解できないのだろうか。それとも、知っててやってる?
過去のデータからの未来予測
次は全球データを引き合いに出してこう主張する。
このグラフを信じれば、僕かに平均気温は上昇しているように見える。しかし、コンスタントに上昇しているわけではなく、一丸六〇年代から七〇年頃まで、気温は前後に比べてかなり低かったのである。だから、このまま上昇し続けると考えるよりも、むしろ再び下降に転じると考える方が合理的だ。数年間、平均株価が上昇し続けても、そのまま永遠に株価が上がり続けると考えるバカはいない。
p11-12
本当に再び下降に転じると考える方が合理的なんだろうか。過去のデータのみから未来を予測するのはそう簡単ではないように思える。周期的な変動があり、かつそれによる影響が支配的であってはじめて予測が成り立つのではないだろうか。私は「過去の気温変動のみからでは今後どのように気温が変動するかはわからない」と考える方が合理的なように思える。また、筆者の言いたいことを株価でたとえるのは不適切だろう。確かに平均株価はそのまま永遠に上がり続けることはないだろう。しかし、平均株価は上昇と下降を繰り返しながら長期的には上昇を続けている。将来も長期的には上昇を続けると考えてもそんなにおかしくはないだろうし、平均気温もこのような動きをしないとは限らない。
次は過去の気候を引き合いに出し、
地球の平均気温が下降気味の時は、このままではやがて氷阿期になるという話が流行り、上昇気味の時は、やがて南極の氷が融けて大変なことになるという話が流行る。
p12
と気象学者を揶揄する。これについてはこちらの書評が詳しい。
つづく
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コメント
『環境問題のウソ』に対するhechiko さんの批判に対し、異論はほとんどありませんが、一部、池田先生の弁護をしてみたいと思います。
この本は、世間を騒がしている「地球温暖化論」に対し懐疑的に書かれた本です。今回出している自分に都合のいい局所的な平均温度も、反証例として出しているのだと思います。だから「この反証例はどう説明するの?」というのが、池田先生の主張だと思います。実際に後のページで、現在は間氷期であり、長期的には温暖期と寒冷期が交互に訪れることを書いています。局所的なデータを使った懐疑本は他に、SF小説『恐怖の存在』(マイクル・クライトン)や『これからの環境論』(渡辺正)があります。2冊とも増田先生が書評を書いています。特に渡辺先生の本に対して辛口です。あと懐疑本としては、『地球温暖化論への挑戦』(薬師院仁志)と『超異常気象』(根本順吉)があります。『地球温暖化論への挑戦』に対しては安井先生が厳しく批判しています。ちなみに伊藤公紀先生の本は絶賛です。あと根本先生はhechikoさんが紹介されたサイト『ほぼ日』で(読者から)素人扱いだったみたいですね。
投稿: おおくぼ | 2006年3月11日 (土) 11時42分
局所的にみて気温が変わらなかったり、下降していたりといった事実は「地球の気温は(一律に)上昇している」という説の反証にはなっても、「地球の気温は(平均的にみると)上昇している」という説の反証にはなりません。そして、温暖化説で言われているのは後者です。局所的にみると上昇していたり、変わらなかったり、下降していたりと様々な変動があって、それらを平均すると上昇している、という主張がなされています。
ですから、仮におおくぼさんの解釈通り、「この反証例はどう説明するの?」と池田清彦が主張しているとすると、「そんなものは反証例にはなりません。まずは相手が何を主張しているのか理解すべきです。」といった回答が出来るかと思います。
「日本の人口は減少している」という説に対して、局所的な人口の増加例を持ち出して「この反証例はどう説明するの?」と言っているのと同じですね。なんの反証にもならないし、相手がどのような主張を行っているのか理解していないのが丸見えですね。
薬師院仁志の本は未読ですので感想は言えませんが、伊藤公紀の本はなかなか良くできていると思います。
投稿: hechiko | 2006年3月13日 (月) 19時28分